2023年2月15日水曜日

イチジクの根にびっくり

この年齢になっても驚くような気付きはあるものだ。
千駄木菜園で驚いたのはコウガイビル以来だな・・・・

庭に場所がなくて鉢に植えたままの果樹の苗があった。
不知火、イチジク、桃である。
鉢は大きいといっても下から根が出ていて早く本植えしないといけない。
どこに植えようか。

サザンカ、ハナミズキ、キンモクセイを伐採、抜根したといってもそこは日当たり悪く植えられない。
そこでイチジクを一本抜くことにした。

今イチジクは3本ある。
2本は道灌山通で拾ってきて地植えしたもの、もう1本は昨年2月、埼玉で買って鉢植えのままになっている苗である。

一番育っている一本は昨年夏に初めていくつか実をつけたが、その場所が欲しかったので、可哀そうだが抜くことにした。

抜こうとしてびっくり。
根っこがとてつもなく長く、引っ張ると切れずにずるずる抜けてくる。
浅いところを這っている根は、抜こうとすると、落ち葉や草を盛り上げて飛びだし、それが長い距離を走るように伸びていく。
2023‐02‐13 8:12
広いところに出して撮影
青い支柱は150センチ。
つまり根の長さは3メートル、4メートルはある。
重要なのは、切れないように、なるべく長く掘り出そうと思ったわけではなく、無造作に引っ張り、ぶちぶち切れてもこの結果だということ。実際、浅いところでなく深く沈む太い根(もっと長いと期待される)は、引っ張っても抜けずまた切れなかったのでノコギリ、ハサミなどで切断してしまった。

よく木の根っこは上部の枝の下まで広がるというが、イチジクに関してはそれ以上である。こんなに長くなるほど進化した理由は何だろう?
2023‐02‐13
死体現場のようにも見えるのはイチジクの根。
あたかも新種の巨大クラゲのような姿。
放っておいたら庭中イチジクの根っこになるのではなかろうか。
この姿を見ると抜くのが可哀そうだと思った気持ちは消えてしまった。

2023‐02‐15
イチジクを抜いた場所に植えた不知火みかん

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2023年2月13日月曜日

マンリョウ、センリョウの覚え方

11月から1月、2月にかけて、すなわち年末年始に赤い実をつける常緑小低木の2つ。
両方とも庭にある。
植えたのではなく、鳥が種を運んできて、毎年発芽して、適当に引き抜いている。

あれ? あの、赤い実がたわわに下がっているのはセンリョウだっけ?マンリョウだっけ?
年取って初めて見たものはなかなか覚えられない。
共通点が多いのに名前が似ているのが悪い。
(いや共通点が多いから似ているのか?)

妻に確認したところ、幹が一本、葉っぱが色濃く厚く、実が下になるのがマンリョウ。
株から細い茎が何本も伸び、枝の頂上部に花をつけるのがセンリョウ。
2023‐01‐27
マンリョウ
この機会にはっきりさせる。
名前の似ているのに千と万。
マンのほうが大きいから、実が多く、たわわに重く下がるほうがマンリョウ。
2017
葉っぱが薄く実が少しずつ上のほうにつくのが、万より軽い千リョウ。
と覚えることにした。

今年のセンリョウは剪定をしなかったからか、実をつけなかった。
2023‐01‐27
センリョウの根部
ちょうどサザンカの切り株を抜くにあたり、センリョウが邪魔になっていたので移植した。
移して枯れることを心配して株を3分割した。
根元が木質になっていてノコギリでやっと切れた。
草のようにも見えるセンリョウが木であることがよく分かる。
幼苗から実がつくようになるまでマンリョウより長い期間、数年かかる気がする。

センリョウは花が上について目立つからか、正月用の切り枝としてマンリョウより人気がある。センリョウ科センリョウ属である。
妻が隣に植えたヒトリシズカは全く違うのに同じセンリョウ科(チャラン属)という。

2023‐02‐13
マンリョウの鉢植え
邪魔なので抜いていたが、鉢植えを作った。
だれか欲しい人がいないかな?

マンリョウの実は自然に落ちるが、これら幼木が育っていたのは離れた桜や柿の木の下だった。種は鳥の消化管を通らないと発芽しないのかもしれない。

さて、マンリョウはサクラソウ科ヤブコウジ属という。
え? サクラソウ?
サクラソウ科サクラソウ属のサクラソウ、プリムラとは似ても似つかない。だいいち、木と草ではないか。

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2023年2月8日水曜日

新旧・国立競技場の航空写真と神宮外苑の歴史

立春2日後の2月6日。
1か月近く悪戦苦闘していた庭の切り株掘りが一段落した。
3月並みの陽気で暖かい。世間は月曜日。
このところ出かけるのは葛飾の畑バイトかダンスだけになっていたので、久しぶりに散策に出た。

ちょうど聖徳記念絵画館の入場招待券をもらっていたので、目的地は神宮外苑。

完成後行こう行こうと思っているうちにオリンピックも終わってしまった国立競技場周辺も見たかったから千駄ヶ谷で降りる。

千駄ヶ谷駅前の東京体育館はよくダンス競技会の会場になる。
2008年以来何回か来ていたが、春と秋に来た2017年が最後。
2023-02-06 10:51
体育館の南のデッキをぐるりと東に回ると、いきなり巨大な国立競技場が迫ってきた。

2017年のときは外苑西通りの向こうで工事中だった。
2017‐03‐11
東京体育館東のデッキから見る
2017‐10‐07

新しい国立競技場は近くなり、外苑西通りが狭い地下道になってしまったかのように、体育館と競技場のデッキが広い歩道橋で一体化されている。
競技場に近づくと、そのまわりは広い軒下のようになっていて、ジョギングする人がいた。
2023‐02‐06
周囲の壁面は2020東京オリンピックの全メダリストの名前がパネルになって貼ってある。
gymnasticsのところでD.Hashimotoが目に入った。
もう忘れている。
コロナという不運もあったが、盛り上がりに欠けた残念な五輪だった。
メディアのお祭り騒ぎと世間の感覚がずれていた気がする。

1年延期は仕方がないとしても、延期しても終息が見えず観客も入れられないほど開催に無理があるなら、中止すべきだったのではないか?
そもそも一般国民は東京五輪をマスコミがはしゃぐほど望んでいたか?
そりゃあ、始まればテレビを見るだろう。日本選手を応援し、活躍すれば心躍るだろう。
しかし、東京で開催することに強くこだわる人は、総人口からみれば少ないだろう。
IOC、JOCなど関係者のほかは旅行業者、イベント会社などで働く人々の一部ではないか。そこに政治家、メディアが乗っかる。

世間の批判をかわすため、わざと開催費用を低く見積もったところに、コロナで観客も入れず、延期、感染防止対策にともなう追加費用もかかり、莫大な赤字となった。反省はしたのだろうか? 札幌五輪招致関係者は何を考えているのだろう。
一部の利益享受者が税金を食い物にし、メディアがムードを盛り上げ、単純・素直な国民を誘導した。
ワクチン接種も同様。
こんなに簡単に国民を動かせるなら、戦争だって起こせるのではなかろうか?

2023‐02‐06 11:01
さて、新競技場は隈研吾らしく木材を並べた庇を作り、日本らしさを出そうとしたのか各庇の上にプランターを並べ小樹木が植えてある。しかし競技場と樹木のスケールが違い過ぎてデザイン的には意味がない。維持費がかかるだけのような気がする。私は北京五輪の鳥の巣スタジアムなんかが好きである。

個人的には新国立競技場の建設も反対だった。
1964年東京五輪に使われたクラッシックな旧国立競技場(1958年竣工)をそのまま使えば、いかにも先進国らしい。五輪が開催国の国威発揚の場であるからには(だから歴代各国は巨額の国費を掛ける)、新興国との格の違いを見せつけるとともに品の良さも見せられて、なんとかっこ良いことだっただろう。

大きく建て替えることで周辺樹木を伐採せねばならず、公園緑地が失われたことが心配だったが、実際来てみるとあまり気にならず、競技場も(幸か不幸か)おとなしくて、ちょっと安心。

以前の国立競技場を見てみよう。
2014 国土地理院
2019 国土地理院

おもに西の東京体育館側の緑地帯と明治公園、都営霞ヶ丘住宅が壊され、日本青年館(1925開館、1979改築)が南に移動した。

ついでに戦前の航空写真も見てみる。
国立競技場の場所には、学徒出陣の行われた神宮競技場(1924竣工)があった。
1936‐06‐11(陸軍、国土地理院)
右の黒塗りは青山御所。

1948‐03‐29(米軍、国土地理院)
絵画館の北西から千駄ヶ谷駅前を通って西に伸びる並木道は、明治神宮本殿のある内苑の北参道につながる。今や内苑、外苑は完全に分離しているが、かつてはもう少し一体感があった。

現在の神宮第二球場の場所の円形施設は相撲場である。
いまも新横綱が明治神宮に土俵入りを奉納するが、当時はここでやったのかな?

この神宮競技場は連合軍に接収されたが、1952年に返還、再び一般に開放された。1958年のアジア大会と国体の会場となることが決まったことで、1956年、明治神宮から文部省に譲渡され、解体、同じ場所に同じ向きで1958年3月初代国立競技場が竣工した。

ちなみに国立競技場と千駄ヶ谷駅の間にある東京体育館の場所は徳川宗家(16代家達系)の屋敷だった。1943年に東京府が徳川家から買収、「葵館」の名称で錬成道場とした。連合軍の接収、返還の後、1956年体育館が完成、1958アジア大会、1964東京オリンピックに使われた。老朽化のため1986年解体、1990年今の東京体育館が竣工した。ちなみに、設計した槇文彦は丹下健三門下の東大工学部1952卒、幕張メッセなどを設計した。母方の祖父は竹中工務店会長だった14代竹中藤右衛門である。
10:59
南側の広場
タイトルの字体が変だなと思ったら、縦に多数の棒を並べて白く塗って文字にしている。
それが二重になっているため歩いて動くと、文字が立体的に変化する。

周りには幼稚園児の集団がお散歩に来ていた。この周囲に住んでいる金持ちの子どもかな。色んな歴史のある神宮外苑も今はのどかな時間が流れる。
むこうに見えるネットは神宮第二球場。

第二球場の横を突っ切ろうと思ったが工事中で入れなかったので、神宮球場と日本青年館の間の道を青山通りまで歩く。

11:10
神宮球場。南西のこちら側がホームベース。
所有者は明治神宮。
1926年竣工だからナイター照明は球場とは別の構造物として設置されている。

ちなみに、この写真を撮っているところは、神宮外苑のある新宿区(霞ヶ丘町)と、神宮球場向かいの国学院高校のある渋谷区(神宮前)、秩父宮ラグビー場のある港区(北青山)、という3区の境界点である。
いまや文句なしの都心だが、戦前の昭和8年まで、この道の西側は東京市外の豊多摩郡だった。(だから渋谷区は墨東の墨田区や江東区より序列が後である)

11:14
秩父宮ラグビー場
「西の花園・東の秩父宮」という日本ラグビーの聖地

神宮球場の老朽化もあり、青山通りの伊藤忠本社も含めこのあたり一帯の再開発計画がある。まず、第二球場を解体し、ラグビー場を新設する。ラグビー場を解体した後に野球場を作り、完成後に現・神宮球場を解体してラグビー場の観客席を増設するという。新・神宮球場の南には伊藤忠本社やスポーツ団体などが入る高層ビルを建てるらしい。

11:21
青山通りに出て伊藤忠本社の前を通って銀杏並木の南端に来る。
この角のロイヤルガーデンカフェは、テラス席が撮影にも使われるお洒落な店。それほど高くはなさそうだが、デートでもない限り入ろうとは思わない。皇家飯店の閉店後、2008年オープンした。
となりはフランス料理のキハチ青山本店。
この2店が入る建物は明治神宮外苑青山休憩所という。
11:24
奥の正面に絵画館が見える。
左はハンバーガーのシェイクシャック。

ほとんど人が来ない(後述)忘れられたような絵画館が、なぜ都内一等地の、この有名な並木道の突き当り正面にあるか?

明治45年(1912)の天皇薨去の後、その遺徳を記念するため、絵画館のほか葬場殿址記念物、憲法記念館、陸上競技場の4施設が計画され、それらを納める敷地として、青山練兵場が選ばれた。やはり明治天皇を記念する神殿が明治神宮として代々木に作られることから、その外苑という形で公園が整備されたのがここである。

1924年に計画が変更され、絵画館、陸上競技場のほかは野球場、水泳場、相撲場が作られることになった。つまり絵画館は、神宮外苑を作るきっかけとなった建物である。また明治天皇を最も具体的に顕彰する施設である。それを思えば、神宮外苑の中心で、今では不自然なほど巨大な姿を見せている理由が分かる。

ちなみに青山練兵場の訓練機能は神宮外苑造成計画の出た1918年に代々木練兵場に移転し、土地を明け渡した。

神社の置かれる内苑は国費で整備されたが、外苑施設の建設費、整備費は全国からの寄付金で賄われた。(予算を立て、全道府県に割り振った)。

11:35
ようやく目的地の聖徳記念絵画館についた。
千駄ヶ谷駅からぐるりと50分くらい歩いた。

聖徳は聖人(明治天皇)の徳だからセイトクと読むのだが変換されず、仏教用語など呉音のショウトクと入れたら一発で出た。確かにセイトクなんて、ここ以外で聞いたことがない。ちなみに京王線の聖蹟桜ヶ丘は明治天皇の行幸を記念した多摩聖蹟記念館(1930年開館)が近くにあるから命名された。

この絵画館は明治天皇の誕生(1952)から崩御(1912)までの60年間を80枚の絵にして展示してある。画題は天皇の人生を描いたのではなく、この時代を表す歴史的場面をしっかりした時代考証で描いたもの。だから二条城での大政奉還宣言や江戸城明け渡し会談(勝・西郷)、憲法発布式、旅順開城(乃木・ステッテル)をはじめ、日本史の教科書などに使われる有名な絵も多い。

1枚1枚の絵に歴史的意味があるから近代日本史が好きな人によい。
いつもガラガラに空いていること、入場500円と安価なこともあり、私は記録にあるだけで1996年(一人で、画集購入)、2004年(小川さんと)、2014年(今中さんと)少なくとも過去3回は行っている。今回は2023年だから10年に1回程度来ていることになる。もちろん絵の入れ替えはないから、どの絵も見たことがある。画題、画家に関する知識が前回より10年間でほんの少しだけ増えていることに気づく。

11:37
玄関ホール

建物は1919年着工、1926年(大正15)に完成したが、肝心の絵画の搬入は遅れに遅れ、この時点では80枚のうち5枚しかできていなかったらしい。
そもそも、画題の選定は当時進められていた国史編纂事業の委員らにゆだねられ、さらに関係者への取材をもとに、洋画家の二世五姓田芳柳が構成も考えた画題考証図(第二成案、80題)を大正10年に完成した。
ついで、画家、奉納者の選定に入ったが、構図がすでに決まっていたことなどへの反発から画家の選定が難航する。その後「壁画調成委員会」が設けられ、川合玉堂、横山大観らがメンバーに加わり、担当画家が選ばれたが、80枚の絵が納められたのは、なんと1936年(昭和11)という。
12:16
展示室は暖房が入っていないのか、冷えたので階下のトイレに立ち寄った。

ここは人がほとんどいないと書いたが、入館から退館までの45分ほどの間、館内で見た客は男性一人だけだった。窓口で聞くと平日は4,50人、休日でも7,80人くらい入るというが本当だろうか。

帰りは国立競技場を一周したかったので、信濃町駅ではなく千駄ヶ谷駅に戻った。
12:26
途中、国立競技場の北東の端に「出陣学徒壮行の地」という記念碑があった。

昭和18年10月21日、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して出陣学徒壮行会が神宮外苑競技場で挙行され、学徒を中心に7万人が集まった。冷たい雨の中、銃を肩に、東条英機首相の前を行進する学生らの映像がネットで見られる。この碑はその50周年を記念して1993年に作られた。
最初は競技場のマラソンゲート付近(このあたりか?)にあったらしいが、工事中は秩父宮ラグビー場のほうに避難し、競技場を含む一帯の工事が完成してから再び設置したようで、まだ足元が新しい。

ここは色んな歴史が詰まった土地である。


20170311 国立競技場と絵画館の駐車場

2023年2月3日金曜日

ハナミズキ、キンモクセイなどの切り株を掘る

最近ブログを書いていないが、何をしていたかというと、ずっと穴を掘っていたのだ。

1月10日、ハナミズキ、サザンカ、キンモクセイを伐採してもらった。

翌日からさっそく根株を掘り始めた。
2023‐01‐11
ハナミズキの株。
向こうにサザンカも見える。
2023‐01‐11
チェーンソーを使って根を切り始めたが、すぐ挫折。
ハナミズキの幹に近いところの根は、二本融合したのかと思うくらい、断面が楕円形をしていて、上から見ると細くても、上下に長く、深いところまでチェーンソーでは切れない。
2023‐01‐14
3日間、大分掘ったが、諦めた。

以前ザクロの根を掘ったとき書いたが、根を切るには土を掘らねばならず、土を掘るには根を切らねばならない。また、枝なら一か所を切れば取り除けるが、根は二か所切らないとその空間が空かない。おそらく根を切るのは枝を切る何十倍も大変だろう。

東村山のハンセン病患者隔離施設・全生園の巨大築山を思い出す。
入居者は皮膚に病変はあるものの、若く健康で頭脳も明晰、彼らは武蔵野の原生林を開墾した。もっとも大変だったのが切り株の除去。大人数で来る日も来る日も土を掘り、根を切った。切り株は薪にならないので一か所に積み上げたら山になり、皆その上に登って、故郷の方角を見て涙したという。
(別ブログ)

さて、ハナミズキをあきらめたので、サザンカに向かった。
2023‐01‐14
掘ってみたが、サザンカの根は幹ほどもある。
チェーンソーでも難しい。これも諦めた。
そして3つ目のキンモクセイに向かう。

2023‐01‐14
キンモクセイも大変。
切り株の上の移植ごては30センチである。

ふたたび2本目のサザンカに戻る。
2023‐01‐15
サザンカを丸1日掘った。
太い根をやっと切ってみたが、その下に何本も太い根がある。
諦めた。

結局3本とも諦めることになった。
しかし、退職老人はやることがないから、ふたたび最初のハナミズキに向かう。
掘り出した土を置いておくスペースさえあれば、毎日少しずつ掘っていけば、つまり自分が入るだけの大きな穴を掘れば、必ず(理論的には)株を掘り出せるはずである。
2023‐01‐15
ハナミズキを掘っている私の頭にミカンが当たる。

2023‐01‐20 (移植ごては30センチ)
ハナミズキに集中して5日目、とうとう株を掘り返した。
諦めたら終わり、続ければ何とかなるものだ。

しかし重くて動かせない。
翌日から根の間の土をきれいに除き、チェーンソーで出っ張った根を切っていく。
さらに数日寒風で乾燥。
何とか手で持ち上げた。
2023‐01‐27
オブジェにもなりそうな形だが、家に置いておくわけにもいかない。
もう少し乾燥させればゴミ置き場まで運べるかもしれない。

さて、一度諦めたハナミズキが成功したので、やはり諦めたキンモクセイに挑戦する。
2023‐01‐29
こちらは切り株が大きいのと、白菜が近くて残土置き場がないのとで、ハナミズキより難易度が高い。
更にチェーンソーが切れなくなってしまった。
切れないのに当てていると摩擦で切断面から煙が出る。
仕方がないので太い根にも小さなノコギリで挑む。
2023‐01‐30 11:27
切って掘って、切って掘る。
根が増えるわけではないから、地道に続ければ少しずつでも必ず進む。
いつかは掘り出せるはず。
この日はバイトもダンスもなく、朝から晩まで作業を続けた。
変な姿勢で続けるから体が痛くなり、腰を伸ばそうとすると立ち眩み。
立ち眩みがなくともバランスを崩してよろけるのは老人だからか。
2023‐01‐30 16:34
暗くなって見えなくなる直前、とうとう最後の根を切断した。
しかし切り株は重くて外に取り出せない。

翌31日、土を入れて株を乗せ、また他方に土を入れて株を動かす。
そうやって、地上までせり上げたところで、移植ごてがないことに気づいた。
前日、写真を撮るにあたり30センチの目安として株の根元に置き、今朝になってそのまま土を入れてしまったのである。

残土置き場がないことから、また穴を掘って探すのは厄介。
移植ごては他にもある。
諦めて切り株のトリミングを始めた。
しかし移植ごてが気になる。
たかが数百円だが、地中に放置して有害ではないか?
鉄は無害としても、あの赤い色は金属染料ではないか?
そんなに有害なものは使ってないとしても、目の前の地中にあるのに放っておくというのは、気持ち悪かった。
そこで再び穴を掘った。
しかし見つからず、諦めて土を戻した。

夕方、ダンスの練習中も移植ごてが気になった。
捜索範囲が狭かったのではないか?
しかし十分掘って探したはずだ。
いや、時間はあるのだから、もう一度掘るべきではないか?
迷い続けたが、寝る前の風呂で、翌日再び探そうと決心したことで、もやもやがなくなり、安眠した。
2023‐02‐01 8:59
この日はそれほど寒くはなかったが、土は凍っていた。
移植ごてを求めて掘っていくと、明らかに前回、前々回も掘らなかった底の層にぶつかった。
これより下にはないだろう。

2023‐02‐01 11:47
結局、移植ごては見つからず。
二回も探してようやく諦めがついた。

午後からサザンカに立ち向かう。
前回1月15日、太い根を2本、幹に近いところで切ったが、先端が太いまま地中に潜っていたので、太い根は一本も掘り出せず、諦めたもの。

今回はハナミズキがなくなったので、そこに残土を置けばいいから、穴を大きく掘れた。
2023‐02‐01 16:29
この日はいちばん太い根の掘り出しに挑戦した。
半月前に幹に近いところを切断したものの、全くびくともせず、切り株掘りだしを諦めさせた大物の根っこである。今回は大きく掘り、先端で枝分かれした先を5か所切り、ようやく取り出せた。ここで暗くなり時間切れ。
この日も疲労困憊、体は痛く、泥だらけの服のまま居間のコタツで寝込んだ。

翌2日はバイトとダンスの練習があったのであまり進まず。
3日は13時から日没まで、休みなしで掘り続けた。
前回諦める前に、ある程度切っていたので、割と進んだ。
2023‐02‐03 17:07 サザンカの最後

暗くなってノコギリの先が見えなくなるころ、強く押して引っ張ったら最後の根がプツンときれ、切り株が穴の中で転がった。私も尻もちをついて転がった。

株は掘れたが重くて外に出せない。
サザンカの株はハナミズキはもちろん、キンモクセイよりかなり重い。
小さなノコギリで、ゴミに出せるまで小さくできるかどうか自信はない。

追記 2021‐02‐05
2023‐02‐05
左からハナミズキ、サザンカ(後ろの根も)、キンモクセイ
サザンカの巨大さが目立つ。
3つとも転がすことはできても持ち運べない。

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2023年2月2日木曜日

聖護院は宮重大根から派生した

大根は2014年の秋から作っている。今年で9回目。
2015、2016の2年間は聖護院と宮重総太りの2種類を作ったが、2017年からの6年間は宮重だけにしている。
肥料をやらなくても毎年良く育つ。
2023‐01‐08
写真を撮ろうと、右手にスマホ、左手に大根を手にしたら、重くて持っていられない。
大根のほうの手を物干しに支えてもらったが、手を一杯に伸ばしても大根が全部写らない。結局妻を呼ぶ。
「地面に置いて写せばいいのに」
なるほど。
葉っぱを除いて54センチ、2.07キログラム
今までで最大。これほど大きいものは規格外だからスーパーにはない。

宮重総太り大根は尾張地方で作られていた宮重大根の一種である。(宮重は集落名、今の清州)。タキイ種苗がこれを含めて4種の大根を掛け合わせ(宮重系は3種)、耐病総太り大根を作った(1974)。しかし大きさが不揃いであったため更に改良したのが、現在スーパーで流通する大根の90%を占める青首大根である。
真ん中が太い、おふくろ大根、三浦大根などと違って円筒形であるため、おでんなど料理に使いやすい。
生産量は1位の北海道、2位の千葉県、3位青森県で全国の33%を占める。北海道では7月~9月に、千葉では10月~6月に収穫され、なるほど、私がバイトするスーパーの大根は銚子産である。

千駄木菜園の宮重総太り大根の種はダイソーで2袋100円で売っていたもの。
青首大根の一種であるから、成長すると地上にせり上がり、青い部分は甘い。

毎年、時期をずらし(意図的でなく、夏野菜の終了時期によって少しずつ場所が空いてくるため)3回くらい種まきしている。

今年は第一次としてトウモロコシ、枝豆の終わった8/21-9/11に種をまき27本育てた。種まき日が長期にわたったのは、発芽しても何者かに(根切り虫?コオロギ?)食われて何度かまきなおしたからである。27本中24本は優に1キロ越え(スーパーの大根以上)の予測。

第二次は、シシトウ、ナスの終わった9月29日、宮重でなく聖護院大根を6年ぶりにまいてみた。
第一次より1か月遅く日当たりも良くないため、発育は遅かった。

聖護院大根は京野菜として知られ、形がカブのように丸いというだけでなく、煮崩れしないわりに肉質が柔らかいという(6年前は不作で比較できなかった)。ちなみに千枚漬けは大根ではなく聖護院かぶである。

聖護院は修験道(仏教に取り入れられた日本独自の山岳信仰。山伏が出てくる)の一派、本山修験宗の総本山である。平安神宮のすぐ北、京大医学部の東にある。明治時代まで住職を皇室から迎える門跡寺院として高い格式を誇った。

聖護院大根は、ここの修験者(山伏)たちが創出したのではなく、この一帯、聖護院村で作られていたから、名前に地名が冠されたもの。聖護院カブ、聖護院キウリ、聖護院八つ橋なども同じ。

聖護院大根は宮重大根から作られたとwikiに書いてある。しかし疑い深い私は、逆に円筒型の宮重系のほうが(9割を占めるくらいだから)進化系のように思えて、調べてみた。

1983年、26歳のとき大宮駅ビルで買った「原色日本野菜図鑑」(高嶋四郎)を開いてみる。
それによれば、文政年間(1816‐30)、聖護院村の農家がたまたま尾張から黒谷の金戒光明寺(別ブログ)に奉納された2本の大根(細長い宮重大根)を見た。当時付近で栽培されていたもの(細長い中堂寺大根)より、はるかに大きく立派だったため、門主に頼んでもらい受け、畑に植えた。しかし長年栽培を繰り返すうちに変化し、短形、丸型の固定品種となったという。いまでも京都では別名として尾張大根というらしい。

さて、我が家の聖護院大根、葉っぱは若々しいが、まだ小さいと思う。
でも待ちきれず収穫した。
2023‐02‐02
聖護院大根、初どり。
後方は宮重総太り大根

葉っぱを除いて測ると450グラム。
ほとんど全部が1キログラムを超える宮重と比べると大分小さい。
種まきが一か月遅かったからかもしれない。

しかしもし普通に育てても小さいなら、宮重大根から派生した新種というのが、やはり信じがたい。それとも上品な京都の人は味重視で大きさは無視したのかな?
どの程度味が違うか、知らないけど。


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2023年1月22日日曜日

東京都シニア交流ダンス大会と味の素スタジアム

 

東京都は毎年、60歳以上を対象としたシニア・コミュニティ交流会「TOKYO縁(エン)ジョイ」というイベントを行っており、コロナで二回中止していたが、今年は開かれた。
囲碁、将棋、健康マージャン、ダンススポーツ、カラオケがある。

文京区の競技ダンスサークルの人に誘われ、初めて参加した。
開催日が1月17日、火曜日というのが、いかにもシニアの大会である。

いつものダンス競技会と同じく燕尾服など荷物をいっぱい持って駅に向かったら人が多くてびっくり。山手線は通勤の人で満員、ひとり違う自分を思い、改めて退職したことを実感した。

会場は武蔵野の森総合プラザ、メインアリーナ。
まるで普通名詞のようで、どこかと思ったら味の素スタジアム(東京スタジアム)の隣という。
このスタジアムも行ったことはなかったが、調布のほうとは聞いていた。

最寄り駅は京王線の飛田給。
降りるのは初めて。とびたきゅうと読むのも初めて知った。
駅名由来は諸説あり省略。

駅舎は大きくて新しい。
通勤ラッシュの時間なのに人がほとんどいない。
いかにもイベントのための駅という気がする。

しかし東京スタジアム開設に合わせてできた駅ではなく、大正時代1916年に開業している。
2001年にスタジアム開業に合わせて全面的に改築、橋上駅とした。
おそらく、あわせて区画整理もしたのだろう。

駅からまっすぐスタジアムに道路が伸び、広い歩道に面する店は新しい。コンビニはもちろん、日高屋、すき家、華屋与兵衛、バーミヤンが並び、駅前通りなのに古い商店は一軒もない。
2023‐01‐17
左:メインアリーナ、右:味の素スタジアム

緩やかな広い歩道橋があり、上がるとそのままペデストリアンデッキでアリーナやスタジアムの入り口に続く。甲州街道(国道20号)を信号待ちせずに大量の観客が歩けるような設計になっている。

国道20号と味の素スタジアム
KFCで腹ごしらえをして、試合後はロイヤルホストで祝勝会ができる。

東京スタジアムは東京都と京王電鉄などが出資する第三セクターが建設、2001年竣工した。2002年秋、東京都が日本で初めて公共施設に命名権を導入することを決定したことを受け、2003年に味の素が命名権を買った。以後、ずっと更新を続け、今の契約は2019年3月ら2024年2月末までの5年間、11億5千万円という。
飛田給駅とスタジアムをまっすぐつなぐスタジアム通り。
ペデストリアンデッキ南端から駅方向を望む。
この下は甲州街道(国道20号)

さて、目的地の武蔵野の森総合スポーツプラザは、味の素スタジアム(写真)の西側、すなわち駅から来るスタジアム通りの西側にある。メインアリーナ(体育館)、サブアリーナ(武道場、プール)、陸上競技場(AGFフィールド)からなる。
メインアリーナの通路からガラス越しに見るAGFフィールド
もちろんAGFは味の素のこと。
味の素は東京スタジアムだけでなく、その東のアメフトが行われる補助グラウンド(アミノバイタルフィールド)、西競技場(AGFフィールド)、スタジアム周辺の広場(あじペン広場、アジパンダ広場)にも名を冠している。

これだけの巨大施設群ができる前、ここは何だったのだろう?
グーグル地図を見ればすぐわかる。
この北に調布飛行場がある。
日中戦争時に陸軍飛行場として建設が始まり、太平洋戦争の前、1941年3月に完成した。
B29による空襲が始まると、首都防衛のため「飛燕」などが配備された。
(B29の迎撃で有名な紫電改は海軍機で呉などの防衛のため松山などに配備された)

戦後アメリカ軍に接収され、1955年一部、1973年に全面返還された。
「中央フリーウェイ。調布基地を追い越し、山に向かってゆけば~」と荒井由実が歌ったのは、私が大学2年のとき、1976年である。

その後、飛行場部分を縮小、現在は新中央航空(株)が東京と伊豆諸島への定期便を運航している。そういえば田辺で一時席が隣だった長岐すみこさんはここからセスナを飛ばされていたな。

調布基地が縮小されて生まれた広大な土地は、しばらく建物も経たず、公園やグラウンドになっていたようだ。1996年の地図を見れば、都立府中養護学校(現けやきの森学園)、調布福祉園(介護施設)しかない。

飛田給駅と調布飛行場(1996)
飛行場周辺は関東村運動場として緑のまま(土のまま)である。
(関東村というのは米軍の施設や住宅を総称して付けられた名称)

今の地図を見れば、西南の隅に東京スタジアムや武蔵野の森スポーツプラザができ、さらにその北西に、榊原記念病院(2003年代々木から)、警察大学校(2001年中野から)、警視庁警察学校(2001年中野から)が移転してきている。
その北には東京外語大学もある。

この大学は戦前戦中の1940年から44年にかけて麴町区竹平町(すなわち神田一橋)から滝野川区西ヶ原町の元海軍爆薬製造所跡地に移転した。私の学生時代、高校の後輩が在学していて駒込駅の北に通っていると聞いたことを思い出す。

近年になって、府中のほうに移転(2001年)したことは知っていたが、ここだとは思わなかった。なるほど、調布基地は広く、北西の半分は地籍が府中市である。

西が原の外語大旧キャンパス跡地は、北区の「西ヶ原みんなの公園」となり、自転車で何回か訪ね、このブログにも書いた。
(別ブログ 20190117 本妙寺と下瀬坂

さて、東京都シニア交流ダンス大会に戻る。
競技以前にまず思ったのは、コロナ対策の厳重さ。
参加者に書類が送られてきて、当日まで二週間の体温健康状態を毎日記入し、ワクチン3回以上の接種証明を出さねばならない。こんなもの必要だろうか?
今はダンスも他のスポーツ同様、競技中はマスク不要となってきているが、今回は競技中も着用を義務付け、しかもウレタン不可、不織布マスク限定。
2,3年前のまだ得体の知れなかったときならいざ知らず、ワクチンもマスクも関係なしにどんどん感染することが分かっているのに、メディアも当局も真面目で神経質な人に合わせるから、いつまでたっても根拠のない(効果の大してない)習慣がなくならない。

当然スタッフも大量に用意された。検温、消毒、書類整理などで多忙な受付時間がすぎると、多くの学生アルバイトは夕方の後片付けまですることがなく、あちこちに立っていておしゃべりしたり、たまにトイレの場所を教えたり、エレベーターのボタンを押すことくらいしかすることがない。
お役所のすることは予算さえとれば、いくら金がかかっても構わないようだ。
2023‐01‐17
会場のメインアリーナはとても立派だった。
ダンス競技会は千駄ヶ谷の東京体育館、駒沢オリンピック公園体育館も使われるが、ここの広さ、豪華さにはかなわない。
ふつうは体育館の床を傷めないように女性はヒールカバーをするのだが、今回は特別に板を敷き詰めたのでヒールカバーも必要なし。

開会式から閉会式まで、キンタローがゲスト(縁ジョイサポーター)として立ち会い、全日本10ダンス現チャンピョン山本武志・木嶋友美組、三笠宮杯2020年ラテン優勝、2021年スタンダード優勝の大西大晶らトップ選手が、午前、午後、昼休みにデモ、講習会を行うという豪華さ。表彰式には小池都知事も来て賞状を手渡した。

ちなみに他の部門の縁ジョイサポーターは田中寅彦(将棋)、山本リンダ(カラオケ)ら。
いったい、いくら金をかけているのだろう?
参加賞は、後援の理研ビタミン社の製品(ドレッシングとかつおだし)。
これはいいとしても、あとはシニア向けらしく、車の運転注意や特殊詐欺の啓発チラシなど。
参加記念の大会バッジと「街の安全見守り」バッジと、誰もつけるはずのないバッジが2つも入っていたが、業者と癒着しているのではないかと思うくらい税金の無駄遣い。

それでもこの会は楽しかった。
納税者には申し訳ないが、シニアたちは競技会というよりお祭りを大いに縁ジョイした。
最高齢は89歳、平均年齢71歳、のべ470人が参加した。(実質は115組)。
団体戦はわが文京ダイヤモンドチームが30チーム中3位、賞品は全く嬉しくない、お茶だった。シニアと言っても一日中お茶を飲んでるわけではないぞ。
個人戦は(私は若いほうなので)スタンダードが4位、ラテンが5位だったが、惜しくも入賞は逃した。