2024年9月22日日曜日

山形1 米沢、上杉家廟所と直江兼続ら3人の城主

9月19日、山形県に来た。

手段はまた高速夜行バス。
メリットは値段の安さが一番だが、日帰りでいっぱい時間が使えるのもよい。
泊れば2日使うが、夜行バスなら1日で済む。退職したものの、1日2時間、3時間程度の用事(バイト、ダンス練習)などはほぼ毎日あり、2日何もないことはほぼない。敢えてキャンセルをしないと一人旅などはずっと先送りになる。
それにホテルの予約が要らない。予約するというのは選ぶこと。値段と場所をみながらいくつものホテルをネットで見なくてはならない。それに、どこの駅(都市)にするか決めるには、旅の予定を決めなくてはならない。これが面倒。

デメリットは、もちろん、狭いバスで寝ること。これは無視できない。

その窮屈さは分かっているのだが、
 東京―米沢 4000円
 酒田ー新宿 5200円
を予約してしまった。県内での最初と最後を決めて後はフリー。

山形はいつか来たいと思っていた。
スキーで蔵王、社内旅行で山寺、上山温泉はいったが、ひとりで町を歩かないと意味がない。観光地でなく都市を見て風土とか歴史を見たかった。

東京駅鍛冶橋BTを24:20に出て、5時間後の朝、米沢駅東口に到着。
5:25 (上が西)
市街は奥羽本線米沢駅の西に広がり、JR米坂線がぐるりと南から市街を囲んでいる。一つ目の南米沢駅の旧制米沢工業高校本館、春日山林泉寺が気になるが、時間もないので2つ目の西米沢駅の近く、上杉家御廟にいくことにした。
5:39
米沢駅 改札口。
駅舎は新しいが、古い意匠を取り入れている。
改札でスイカはまだ使えないが、自動券売機では使えた。
改札で駅員が切符にハンコを押す。

もちろん始発列車。
このあたり、列車はワンマンカー。
2両のうち乗った車両は文字通り私一人だけだった。
5:52
はじめての米沢。豊かな置賜盆地(米沢盆地ともいう)。
半分くらいは稲刈りが終わり、今夏の米不足も解消するかな?

北方の長井盆地と合わせて置賜地方という。
19世紀のイギリス人旅行作家が東洋のアルカディア(理想郷と言われたギリシャの地方)と評したらしい。

米沢から2つ目の西米沢で下車。
5:56
西米沢駅。小さい無人駅だが建物は新しい。
近くに商店が何もなく、ポツンと不思議な景色になっている。

6:00
駅前からまっすぐ伸びる道路は広い。
歩道すら車が走れるほど広い。

このあたり直江町という。上越の直江津は直江兼続以前からの地名だが、ここは兼続由来の町名だろうか。(ちなみに兼続が養子に入った長尾家重臣・直江家は与板城主だった)

途中右手に小学校、コミニティセンター、公園がある広大な公用地があり(軍用地ではなかったようだ)、そこまで来ると家々の向こうに高い杉の森が見えた。
6:06
上杉家墓所、北西の角。
地元では御霊屋(おたまや)とも呼ばれているらしい。
原生林ではないが、杉がびっしりと生えている。
6:08
杉のあいだから歴代藩主の霊廟が見えた。
上杉家第二代の景勝が最初に葬られ(火葬)、以後12代までの御堂があるはず。明治以降に亡くなった上杉家当主13代斉憲からは 港区白金の興禅寺に墓所があるらしい。

初代謙信の遺骸は越後、会津、米沢と、はるばる上杉家とともに引っ越しを繰り返し、米沢城本丸に安置されていたが、さらに明治になってこの地に移された。
6:09
杉の多くはツタが絡まっていた。

西辺をぐるっと回って正面参道に出る。
6:13
竹にスズメの上杉家紋のかかった御廟正門
開門は9:00、入場料は500円という。
6:14
格子のあいだから覗いたが、遠くて何も見えない。
「龍」(懸かり乱れ龍)と「毘」の軍旗だけ分かった。

参道の西側にお寺がある。
6:15
八海山法音寺
山号から越後から来たと分かる。
門に米沢藩主上杉家菩提寺と書いてある。

説明板を読めば、八海山のふもとで建立されたが、天正年間に春日山に移り、上杉謙信の帰依寺となった。越後から会津、米沢と転封された上杉家に付き従い、米沢では二の丸に建立された。本丸には謙信の遺骸をまつるお堂があり、そこに奉仕する真言宗21か寺(すべて二の丸にあった)の筆頭として、上杉家の菩提寺となったという。明治3年、神仏分離令で城内からこの地に移った。
6:16
法音寺は善光寺如来と付属の仏具を安置している。
川中島の合戦の際、近くの善光寺から謙信が持ち帰ったと書いてある。盗んだとは書いてないが、強引に献上させたのだろうか?

(ところで、法音寺が上杉家菩提寺とすると、朝の地図にあった春日山林泉寺は何だろう?
調べたら山号どおり、上越の春日山に建立され、上杉家移封とともに米沢まできた。謙信は7歳から14歳までの間、林泉寺で教育を受けている。曹洞宗。晩年の謙信が真言密教に深く帰依したため、謙信の遺骸は城内に建立された真言宗寺院21か寺によって守護されることとなり、林泉寺は謙信廟所とはならなかった。
しかし、歴代藩主の墓は廟所がここに造営されたために林泉寺にはないものの、上杉家の菩提寺として、藩主の正室や子女の墓が安置された。また直江兼続夫妻の墓もあるという。)

さて、上杉家廟所を出て、米沢城を目指す。
秋雨前線が停滞し、雨は降ったりやんだり。東京と違って暑くないから歩きやすい。
6:22
廟所入口からまっすぐの県道を歩いていたら、「毘」「刀八毘沙門天王」という文字が飲食店のような看板にあった。千勝院とある。調べたらやはり越後高田に建立、上杉家とともに会津を経て米沢まで来たようだ。

廟所から米沢城まで1.2キロを14分で歩いた。
6:30
米沢城本丸、北西の隅

本丸跡は櫓などお城関係の建物はいっさいなく、中央に上杉神社がある。
すなわち本丸跡はそっくり全部、神社の境内になっていて、看板地図を見れば、蓮を見ながら渡った橋は「西参道」と書いてあった。
6:33
上杉神社。祭神は上杉謙信。

米沢城は(幕府に遠慮したのか、無用と考えたのか)30万石の城としては天守を構えず、本丸の東北と西北の隅に2基の三階櫓を建てて天守の代用とした。

本丸には謙信の霊屋(御堂)があり、仏式で祭祀を行ってきたが、明治になって神仏分離令があり、明治5年(1872)謙信の霊は、9代藩主治憲(鷹山)とともに合祀され、上杉神社とした。

また廃城令により、明治6年には城の建物が全て破却され(二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所、町役場として利用)、明治9年には謙信遺骸を廟所に移し、上杉神社が現在地である本丸、奥御殿跡に遷座した。
(明治35年、鷹山を摂社・松岬神社(本丸の東隣、世子御殿跡)に分祀したので現在の祭神は上杉謙信ひとりである。)

それにしても米沢の、というより上杉家の謙信崇拝は大したものだ。
謙信は1578年、春日山城で急死し(49歳)、遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、その甕に大量の漆を流し込んで固めてあるという。上杉家の越後から会津、会津から米沢への転封に伴い、遺骸も一緒に運ばれた。そして本丸に高台を作って遺骸を安置するなど普通の藩では考えられない。

上杉神社は大正の米沢大火で類焼したが、米沢出身の建築家、伊東忠太の設計で再建された。
(伊東忠太については千駄木菜園の散歩カテゴリーで何回も書いた)

本殿の前(東)、観光案内所も入っているという臨泉閣は閉まっていたが、幸いトイレは借りられた。
出てくると「天地人」という像があった。
故人を素朴に顕彰するというより、いかにも観光客を相手にした新しい像である。
6:40
副題が「上杉景勝公と直江兼続公 主従の像」

近年、直江兼続が有名になったが、ついにこういうものができたか、という気分になった。
ふたりで城下なり領国の田畑なり、話しながら見つめているのがわざとらしい。
謙信以来の上杉の重厚さを伝える米沢への尊敬心が減ってしまう。

直江は少年のころ謙信に見いだされ、養子の景勝の近習にされた。景勝とともに成長しながら謙信を間近に見られた。謙信同様、学問好きで軍事を宗教のように高次元に置いた。
謙信が急死したとき、景勝は24歳、補佐役の直江は19歳だった。後継者を決めるお家騒動も二人で乗り切り、ここから景勝は終生、すべてを直江に任せた。

中央では秀吉が柴田勝家を倒し小牧長久手で家康と和睦した。そして上杉家は、1585年秀吉政権の大名として組み込まれた。
その後、1590年、小田原征伐のあと家康が関東に国替えになり、秀吉最晩年の1598年、上杉は当時45万石(http://www.joetsu100nen.com/kasugayama-8.pdf)とされた越後から会津120万石に大幅加増で移封され、五大老の一人となった。

ふるさと越後を離れても、これは上杉にとって得であった。この国替えは数か月後に死ぬ秀吉が一人で考えることなどできず、おそらく石田三成の案であろう。三成と直江兼続は同年齢で仲が良く、類似点が多かった。双方補佐官として才能があり、当時の武将としては珍しく漢学の素養もあり、民政がすきで、また珍しく正義漢であった。
三成の構想には、仲の良い直江を通じて上杉と連携し、奥州大名の筆頭として、関東の家康をけん制して欲しかったに違いない。

直江は会津120万石(今の福島、山形、佐渡)のうち、景勝から30万石をもらい、米沢城を本拠とした。豊臣政権の大名で30万石以上は11人しかいなかった。中央で直江は無名だったから世間は驚いた。これも(景勝の直江好きというだけでなく)三成の策だったという。東北で直江の名を高めておくためである。

関ヶ原の合戦では、三成、直江の構想通り、家康を挟み撃ちにする形になったが、三成が1日で敗れ、戦後上杉は直江の知行地、米沢30万石に押し込められた。毛利と全く同じく4分の1になっても家臣団は減らなかったから窮乏したはずだが、それでも景勝の直江に対する信頼は篤く、6万石を割いて与えた。だいたい当時の常識なら直江を切腹させて、家康にお家存続を嘆願するものだ。

「天地人」の像の説明には、
「初代藩主の上杉景勝公、その執政が「愛」の前立ての兜で知られる直江兼続公です。二人の主従は固いきずなで結ばれ、義と愛の心で領国経営にあたり、・・・米沢市民は今なお両公に対し深い敬慕の念を抱いております」

固い絆とか、義と愛の心とか、にわか歴史好き、観光客向け(実際私もそうなのだが)の文章が好きではない。
そもそも、彼が戦場でかぶる兜を作った当時、「愛」とは今の愛とは違うだろう。博愛とか友愛とかは明治以降だし、当時は仏教思想からいってむしろ「慈悲」が前面に出て、愛は愛欲とか愛着とか我執をあらわし、あまりいい意味ではない。あえてこの字を使ったのは、やはり「愛民」だろうか。それにしても珍しいことだ。
いっぽうで、この兜は謙信もしくは景勝があつらえて直江に下賜したという説がある。謙信が春日山の愛宕神社に武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願していたというから、彼が毘沙門天から「毘」を軍旗としたように、愛宕神社の「愛」を兜につけたのではないか。

帰宅後、像のタイトル「天地人」って何だろう、と思って調べたら、2009年、二人を主人公としたNHK大河ドラマだった。それに便乗して作ったものなら、わざとらしい像も文章もすべて納得する。
6:40
「伊達政宗公生誕の地」
天地人の像の向かいに、真っ白な字が浮かぶ新しい黒い石があった。
となりに大きな説明のパネルがあるのだから、こういうものは不要だと思う。
観光客相手だろうが、ないほうがずっと品が良い。

6:44
米沢城は鎌倉時代に長井氏によって築かれたとされる。
室町時代に長井氏は伊達氏に侵略され、以後、安土桃山時代までここは伊達氏の支配下に入った。1548年伊達晴宗が本拠地を桑折西山城より米沢城に移し、晴宗、輝宗、政宗の三代で米沢城下が整備された。
1591年、伊達政宗は秀吉の命令で米沢城72万石から岩出山城(宮城県北部の大崎市)58万石へ減転封された。代わって蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安が入る。1598年には上杉の会津転封により重臣直江兼続が入城。関ヶ原後は上杉景勝が居城とした。

ちなみに景勝は米沢藩主として初代、謙信から数えて2代、山内上杉家(初代関東管領に始まる)としては17代目となる。
竹に雀の似た家紋
伊達は二羽の雀にたくさんの葉が広がる根竹
上杉は二羽の雀に輪竹(桶の周囲にはめるたがの竹)

正宗の曽祖父の三男、伊達時宗丸が、越後上杉家(謙信が継いだ山内上杉家とは別)の養子となる話があり、竹に雀の紋を贈られたのが始まりという。

・・・
それにしても上杉謙信は死後、自分の遺骸が会津に運ばれ、さらに米沢に運ばれ、こんなところで神社になるとは思っても見なかっただろう。

私の上杉謙信は1969年、中学1年のときの大河ドラマ「天と地と」である。それまで川中島、海津城などは遠足で行ったし、飯山の綱切り橋などの話も聞いていたが、まとまった物語としてはこの時が初めてだった。信玄・高橋幸治に諏訪御前・中村玉緒が後ろから抱き着いた場面、謙信・石坂浩二がお堂にこもり、毘沙門天を前に「毘」という文字を筆で書いた場面をまだ覚えている。

(続く)

2024年9月18日水曜日

上野公園12 無料の動物園、根津神社例祭

9月15日、3連休の中日、院展の招待券を頂いたので東京都美術館に来た。

見終わって外に出ると、隣の上野動物園からの放送が聞こえた。今日からシルバーウィーク中は60歳以上の入場が無料という。行ってみた。
13:38
ふだんは600円、65歳以上は300円。
入場券はいらないので並ぶ必要もなく、改札口で免許証を見せるだけで入れた。

よく考えると子供が3人もいて上野動物園は一度も入らなかった。
1987年10月妻が1歳の長女を連れて友人とここで会うとき、私は大学に用事があって、園正門のところで別れたことがある。
(多摩動物園は独身のとき猫田君と彼の彼女との3人で行った。また、留学中の1993年、シンシナチ動物園は家族で2回行った。須坂動物園もいったな)

動物園は子どもとして連れられて、子どもを連れて、孫を連れて、と一生で3回来るという話があるが、孫を連れてこられるかな? 千駄木から歩いてきたいな。

と、書いたら、思い出した。
昭和38年3月、小学校入学直前の春休み、祖父母に連れられ東京見物で上京、上野動物園に連れて来てもらった。しかしこのときは寒くて動物たちは室内にいたのか、ライオンや虎は見られなかった気がする。西郷さんや動物園のモノレールの写真はあるが、動物の写真がない。

さて、
園内は動物よりショップや人が目立つ。
13:41
アジアゾウの場所
姿がまったく見えず。
人間のように暑くて外に出てこないのだろうか?
この日は9月中日というのに東京で34.4度。

ほとんどのエリア、ブースに動物が見えない。
涼しいところにこもっているのだろうか?

外国人が多い。日本人も上野は日本で一番大きな動物園だと思っている。
しかしこれではがっかりするだろう。

人だかりがするので行ってみるとクマがいた。
13:46
ツキノワグマ
最近各地で出没のニュースがあるから、むしろ私はトラやゾウよりも、実際の姿、大きさなど興味深く見られた。
上野動物園は明治15年(1882)に開園。博物館の付属施設だったらしい。
その後宮内省の所管となり、1924年東京都に下賜された。

よく見ると五重塔がマップに乗っている。
東照宮と同じく寛永寺付属だと思っていたのだが、昭和33年(1958)に寛永寺から東京都に寄付されたらしい。動物園入場者はぐるっと周りを歩くことができる。

しかしそちらにはいかず、ホッキョクグマの施設(やはりいなかった)から、西園におりるイソップ橋へ出た。
13:55
動物がいない動物園に入って、ここが一番良かった。
若いころから何百回と歩いた不忍池を北東斜め上から見る初めての景色。
この場所からの精養軒も新鮮。

イソップ橋を下りると、橋の下をくぐるように行列ができていた。
パンダの森への観覧ルートになっている。
パンダはいま4頭いて、高齢のリーリー、シンシンは9月29日に中国に返還されるらしい。

パンダは1950年代からソ連や北朝鮮に、西側へは1972年からアメリカ、日本などに贈られた。1983年まで24頭が友好の証として贈与されてきた。
しかし、いまは高額なレンタル料で貸与され、本体も、生まれた子供も中国に返さなくてはならない。
これは中国がパンダを外交の武器とするため、その貴重性、有難味を保つためかと思ったが、少し違うようだ。

1984年、パンダの贈与が出来なくなったのは、ワシントン条約でパンダの商業目的の取引が禁止されためである。その後レンタルなら可能ということになったのだが、今度は野生個体を捕獲してレンタルするのが始まり、そこで1997年からは、野生個体を捕獲するのではなく中国の動物園や保護センターで生まれた個体のみが国外にレンタルされるようになった。そして高額なレンタル料は、保護活動費のみに使うようWWFによって監視されている。
つまり、レンタルはあくまで野生パンダの保護にあったのだが、結果的に中国外交の大きな武器になっている。

日本のパンダは1972年のカンカン、ランランが始まりで、芸大の動物園側の校舎の壁に「熱烈歓迎~」とパンダ到着を望む横断幕が張られた写真を、高校1年の時、新聞だか雑誌だかで見た覚えがある。

パンダはかつては福岡、神戸にもいたようだが、いまは和歌山アドベンチャーワールド(4頭)と上野だけである。

この暑い中、並んでいるのは大変だな、と思いながら素通りする。
14:00
ハシビロコウ
テレビでよく見るが、実物は初めて見た。ほんとに動かない。
魚を取るのに動くと逃げられるから、こういう生態になったらしい。
長時間じっとしていることは、親から学んだのか、それとも遺伝子に刷り込まれた本能なのか?
魚がいないところでも、また動物園でも動かないから後者のような気がする。

ハシビロは見た目でわかるがコウは何か?
漢字は嘴広鸛。鸛はコウノトリである。

アフリカの動物たちという一角に来た。
14:02
ようやくキリンがいた。隣はサイ。

大人になっても一番見たいライオンはここにもいない。どうも上野にはおらず、東京都は多摩で飼っているらしい。
男の子は動物園で一番見たい動物だろうから、日本で一番有名な動物園にライオンがいないとは、意外だった。

動物はほとんどおらず、暑くて、人ばかり。
園内飲食店はどこも行列。一度園内に入ったら上野駅周辺の飲食店まで行くわけにもいかず、「お腹が空いた~」と子供に言われたら、じっと並ぶしかない。
動物はおらず、疲れるばかりで、親は大変だ。

こちらは気楽だ。
しかし、上野動物園には申し訳ないが、無料で入ったこともあり、素通りに近いほど、ずいぶんと雑に見てしまった。

当初、東京都美術館を出たら、裏の奏楽堂前から台東区のコミニティバス「めぐりん」で団子坂下まで来て帰宅する予定だった。(冬だったら美術館から歩いて2.4キロ、34分)。
しかし、動物園に入って池のほうに降りてしまった。
キリンのエリアのそばに池之端門があり、そこを出ると不忍通り。もうイソップ橋を上がって奏楽堂前まで行くのは遠いので、不忍通りから帰ることにした。

動物園を出ると、不忍通りにお神輿がいた。
このあたりは根津宮永町だったかな。

暑くて疲れた。
珈琲館があったので休もうと覗いたら満席。
今日は根津神社の祭礼で、法被を着ていた人もいた。

地下鉄1駅乗っても団子坂を上がらなくてはならない。
都バスで帰っても、バス停から狐坂を上がらなくてはならない。
文京区コミニティバスに乗れば、坂を上がって家のそばまで行ってくれるので、もう少し歩くことにした。
14:21
赤札堂の交差点から不忍通りが通行止めになっていた。
さすが根津神社。

せっかくここまで歩いてきたので根津神社を覗いてみることにした。
14:26
不忍通りも44年前は二階建てが多かったのに、いまや高層マンションばかり。
しかし通りから一歩中に入ると昔の家が残る。
根津神社の氏子は23町あり、今年は23の神輿の連合宮入があるようだ。
千駄木は団子坂上の北側(旧林町)は天祖神社だが、南側(千駄木二丁目東町会・西町会、上千駄木町会)と、林町の坂下、不忍通り沿い(千駄木三丁目北町会、千駄木三丁目南部町会)の4つは根津神社に属する。

天祖神社の氏子は13か町だから、ざっと倍である。
14:28
久しぶりに根津神社境内を通って、裏の日本医大か坂下のみずほ銀行前でBーぐるに乗ろうと思ったが、人の多さに通り抜ける元気がなくなった。

再び来た道を不忍通りまで戻り、みずほ銀行前からB-ぐるを待った。
その前を千駄木から来た神輿が3台過ぎた。
23台、どうやって境内に入るのだろうと思うが、見に行く元気はなく、14:51発のバスに乗った。

やっと家について、一息した。
喫茶店に入らなかったので少しぜいたくしようと冷蔵庫からハーゲンダッツを出して食べた。
暑かったが、ま、絵も見て、いい日だった。

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2024年9月16日月曜日

院展と東京都美術館、谷中の日本美術院

お隣の伊藤さんに院展の招待券を頂いた。

院展は日本美術院の展覧会である。
日本美術院は谷中と縁が深い。
創立者の岡倉天心、初期メンバーの横山大観、菱田春草らは谷中に住み、日本美術院の事務所は、谷中六阿弥陀道の現岡倉天心記念公園の天心邸に置かれた。(明治40年の地図には南隣)。
大正2年、天心がなくなり、事務所は大観らが中心になって大正3年、三崎坂うえ、谷中瑞輪寺の参道西側に移転、今もそこにある。
だから、日本美術院は、この千駄木菜園のブログ、散歩編「お出かけ・ご近所」カテゴリーに何度も出てきた。

(谷中というのは、東京美術学校に対抗した明治美術会(中村不折、浅井忠、荻原碌山ら)の後身、太平洋美術会のゆかりの地でもあり、事務局は戦前に谷中真島町、今は西日暮里・富士見坂にある)

さて、谷中三崎町に移転した大正3年(1914)、大観らが中心になって日本美術院を再興し(このとき洋画部、彫刻部もできたが、その後日本画だけになった)、その年、日本橋三越で展覧会を開いた。これが再興第1回院展で、今年が再興第109回である。
2024₋09₋15
会場は東京都美術館。
ここはロビー、レストランなどは展覧会入場者でなくても利用できる。西洋美術館などもそうだが、なぜかこちらのほうが入りやすい。無料で休憩できるベンチ、椅子も多く、学生時代から上野公園を散歩するときはふらりと立ち寄ったりした。
11:50
入り口は地下。
地下にすることで外光が入るフロアが1つ増え、建物全体の高さを抑えられる。
1926年実業家佐藤慶太郎からの寄付を受け、日本初の公立美術館として開館したが、老朽化のため、1975年前川国男設計で新しく建て直した。
企画展は入口の東側、また、普通の展覧会は西側の公募棟で開かれる。公募棟は地下1階(ロビー階)から地上2階まで、公募展示室が4つずつ、全部で12ある。

メインの公募展示室は公募団体と学校教育機関に貸し出し、地下2/3階のギャラリーA、B、Cは。3人以上で展覧会の「企画案」を持っている個人グループに貸し出すという。
年間260もの展覧会が開かれ、「公募展のふるさと」といわれるらしい。
11:51
ロビー階・公募展示室のホワイエ
2012年に改修したというが、この景色は1980年ころと変わらない。

11:50に待ち合わせであったが、少し早く着いたらしい妻がカフェで座れたとラインに入ったので急ぐ。レストランミューズは行列ができていたが、ここ(カフェ・アート)は2,3人待って座れたという。院展の最終日前日というより3連休の中日のせいか、どこも混雑している。客の回転はレストランのほうより速いから、こちらで正解。
11:58
カレー 950円
配膳下膳と水はセルフ。
ここは精養軒が運営している。窓の外には奏楽堂が見える。

あっという間に食べ終わり、館内を少し見た。
レストランの行列はさらに長くなっていた。

院展は公募式・日本画の展覧会である。
公募だから誰でも応募でき、審査され入選すれば展示してもらえる。

院展は初めてだが、日本画は好きである。
大観、春草、前田青邨、下村観山、鏑木清方、東山魁夷、平山郁夫など、好きな絵はみな日本画である。
日本画は墨、岩絵の具、和紙、絹を使うというのが条件らしいが、写真のような写実を追わず、陰影がなく、表現が簡潔というのが、いかにも和食、数寄屋建築にも通じる、さっぱりとした味になっている。

初めて日本画展を見たのは、奇しくもここ、まったく同じロビー階の公募展示室だった。
池田さんと付き合い始めたころだから大学院の2年生、1980年9月か10月、公園内をぶらぶらしながらたまたま建物に入って無料の展覧会があったから覗いただけだった。
しかしいい絵がいっぱいあった。田植えが終わったばかりの田んぼの水が感動するくらい緑の中に光っていて、まだ覚えている。特に絵に興味があったわけでないから、作者の名前も見ず、もう一度見たいが手掛かりがない。
44年前、あれは何の展覧会だったのだろう? 院展のように150号のような大きな絵ではなかったが、レベルは高く、しかし無料だった。(院展は1000円)
妻に当時のことを聞いても、彼女はホワイエの椅子で居眠りしたことしか覚えていなかった。

ちょっとわくわく緊張しながら入っていく。
いきなり日本美術院賞(大観賞)・東京都知事賞の絵が目に入ってきた。
12:19
「井の頭(11)―樹下生生(せいせい)」樋田礼子

絵はどれも大きい。
150号(長辺が 2.27 メートル)。
日本画の全部がホテルのロビーに飾るわけでもなかろう。
描くほうも飾る(見る)ほうも大変だから、もっと小さくても良いと思うのだが。

12:30
今回私が一番気に入った作品。

ジャンルは日本画でも、例えば、逆光に立つ暗い女性とか、水中に魚と絡む人間とか、変な形の木とか、夢の中のような、つまり、絵の意味が本人しか分からないような作品は苦手である。私は、単純に、きれいだと思ったものを再現しようと描いたのだろうな、というような分かりやすい絵が好きだ。
自分の好きなものを描いて売れるに越したことはないが、人に見せるなら自己満足だけではダメだろう。
12:55
日本画であるが題材が現代風。
巨匠らの時代からみると、日本画も変わってきた。
しかしこの作品は嫌いではない。
技術や色彩感覚は、どの作者もすぐれているから、題材の選び方、表現方法が大きい気がする。

2024年、復興第109回院展は、同人33、一般(アマ、プロ、無鑑査作品も含む)が243、合計276作品が、展示された。
ここで同人というのは日本美術院のただの正規会員というわけでない。入選すると初めて「研究会員」(現在570名)となり、その後も入選や受賞などキャリアを重ねることで「院友」648名、「特待」160名、「招待」2名とステップアップし、最後に「同人」(37名)となれるらしい。

ちなみによく聞く日展は日本美術展覧会のことで、院展と同じ公募展である。1907年(明治40年)に始まった政府主催の官展の流れをくむ。かつては文展(文部省美術展覧会)、次に帝展(帝国美術展覧会)と呼ばれたが、戦後1946年民営化されてから日展となった。第1回文展から数えれば2024年で117回である。こちらは日本画だけでなく、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門がある。2006年まで東京都美術館で開催されていたが、改修工事を機に、広い六本木の国立新美術館に会場を移した。

同じく公募展の二科展は、1914年(大正3年)文部省美術展覧会(現日展)から分離独立したもので、絵画、彫刻、デザイン、写真の4部門からなる。こちらも国立新美術館。

この日は、院展がロビー階(B1)の4つの展示室全部を使っていたが、1階、2階は主体展、水彩人展、全展、新院展などが開かれていた。無料の展覧会も多く、ギャラリーでも何かやっていた。しかし疲れたので、次回上野に来たときは覗いてみようと、帰宅した。

夕方、翌朝のパンとレタスがないことで買い物を頼まれ、不忍通りまで降りた。
ついでによみせ通りから入ったところにある日本美術院ゆかりの谷中八軒屋跡の写真を撮って来た。
16:51
谷中八軒屋跡
月に1回くらい日暮里駅、谷中方面に行くときの通り道。
明治31年、岡倉天心は校長だった東京美術学校を排斥され、同時に連帯退職した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らと日本美術院を立ち上げた(谷中、大泉寺)。そしてここに8軒の茅葺住宅を建て、大観、観山、春草、西郷孤月、寺崎廣業、小堀鞆音、岡部覚彌、剣持忠四郎の8人と、その家族が住んだ。ここでの生活は困窮を極めたらしい。

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2024年9月13日金曜日

岩船部落の変化、有線電話、町田マケ、岩船地蔵

8月15日、母の新盆で中野市岩船の実家に帰省した。

新鮮屋小田切牧場直営おたぎりで会食のあと、岩船の家でまったりとお茶を飲んで過ごした。信州と言えど猛暑のため、全部で9人がエアコンのある一部屋にいて、世間話でお茶を飲んだ。こういう状況は退屈なので、一人居なくてもいいだろうと、そっと抜け出した。

来るたびに変わっていく岩船の部落内を歩いてみたかった。
お墓や二か所の田んぼに行く南の道をいく。

数年前まで畑だったところに家が何軒も建った。
2024₋08₋15 14:21
実家のほうを振り返る。
左は我が家の畑「もこやしき」(向こう屋敷の意味)
右は近藤忠雄さんちの畑だったが、彼らは以前から畑を切り売りしていて、とうとう集落近くの畑も手放した。
ベージュ色の物置が我が家。
カーブのクルミの木に隠れて頭だけ出ているのがモコノチ(向こうの家)の新しい物置。

同じ場所の昭和34年の写真がある。
昭和34年正月 2歳5か月
道は狭く、両側に小さな川があった。
左の屋根は我が家。右の家はモコノチ(小林利徳さん)の古い物置。
近藤さんちの田んぼ
今や、ここは新しい家が立ち並び、もう向こうの町田良晴(弘治)さんの家は見えない。

岩船という部落は江戸時代から昭和40年代まで、ずっと農家ばかり50軒ほどだった。
(明治15年、54戸)
(昔はこの戸数で高井郡岩船村と称したが(のち下高井郡)、明治22年に、岩船、江部、吉田、片塩の4か村が合併し、下高井郡平野村となる。戸数は順に52、124、104、83であり、合併後の平野村は363戸、1819人だった。1954年に平野村を含めた1町8ケ村が合併し中野市となる)

私が高校生だった1970年代前半まで岩船の景色は、おそらく、明治のころとそれほど変わっていなかったと思う。もちろん、物置や母屋を建て替える家が増え、田んぼにもビニールハウスができ、道路も少し広くなった。
しかし、戸数も家々の場所も変わらなかったからだ。

それが、部落の東端、すなわち信州中野駅の裏、リンゴ畑だった地域に新しい家がぽつぽつでき始めた。

決定的だったのは平成元年(1989)の駅西口の区画整理である。
一輪車くらいしか通れない道ばかりだったリンゴ畑に広い道が縦横に通り、我が家も二か所に離れていた畑が面積は少なくなったものの一か所になった。そして駅に近い住宅地に変貌した。
1988(昭和63)年8月、区画整理前。

ほぼ全戸が農家だった岩船も、高齢化と後継者不足で農作業が苦しくなっていた。その結果、この地域に畑を持つ家は土地を手放し、多くが住宅、アパートとなった。我が家も5世帯が入るアパートを1棟建てた。

その結果、江戸時代から変わらず50世帯だった部落が、わずか10年20年で400世帯を超えたのである。新しい住人は飯山、山之内などの豪雪地帯から降りてきた人もいるだろうが、中野の若い人も多かった。新婚夫婦はかつてのように親と同居せず、別居する。岩船は駅や町に近かったからアパートを建てればすぐ満室となった。戸建てを新築する若夫婦もいた。スーパーや多くの医院も、土地に余裕のない旧市街地を避けて、岩船に開業した。

一気に住宅地になったのは集落の上(北)、リンゴ畑のあった駅のほうだったが、その地域がいっぱいになると(売り切れると)、駅からは遠くなるが集落の下(南)、かつて田んぼだったところにも新築住宅が建ち始めた。それが最初の写真、近藤さんちの田んぼなどだ。

新しい宅地はリンゴ畑の駅西側だけでなく集落を飲み込んで周囲に広がり、景色の変化は村中に及んできたのである。
いつも駅から実家まで歩くだけだったが、今日は村中をあるいてみる。

田んぼのほうへ行く途中にお墓がある。
14:23
お墓は変わらないが、道路を広げるため、道の反対側のきれいな川が暗渠となった。

お墓から南西(たんぼ)のほうは、武田さん2軒、近藤さん、武士辰一さんちがあったが、アパート「かさだけ」2棟はじめ住宅が立ち並び、武士さんちは息子が帰らなかったため、アサコさんが亡くなると敷地を売りに出された。同級生の武士哲子ちゃんがいたからよく遊びに行った。おじいさんは学校の先生をしていた方で庭がきれいで屋根付きの池には大きな鯉がいた。

そちらには行かず、北に曲がる。
お墓の北は山浦さんち。
14:24
山浦堯昭さんち
志賀高原にロッジを経営していらした?関係か、古くから電話をもっていらした。
1965年、真(まこと)叔父が亡くなり、その連絡が山浦さんのところに来て、電話のない我が家に知らせてくださった。

中野市というのは、早い時代に全戸に有線電話網を敷いた。農協が中心となったのだろうか。そのあたりの事情はよく分からない。
我が家は「108の7番」で、かかってくると電話機が「7番、7番」と連呼するから、受話器を取り上げる。この声は第108回線の数軒~10軒の電話機で一斉に連呼された。
こちらからかけるときは(電話機にダイヤルがないから)交換士に「104の6番おねがいします」などという。

それが小学校高学年のころだったか、ダイヤル式に変わり、交換士の声は消えた。我が家は25443だった。いま中学校の1971年卒業名簿で番号を確かめた。クラスのほぼ全員に一般電話でなく5桁の有線電話番号が載っていた。
ダイヤル式の有線電話は、何か操作すれば一般電話に接続可能だったようだが、当時、ほとんどの家は農家だったし、人の交流は市内に限られ、市外に電話する必要もなかった。

その後、我が家もようやく一般電話が入った。しかし有料だったから(当たり前)、市内にかけるときはタダ(定額)だった有線電話のほうを皆使い、一般電話をかけることはほとんどなかった。
高校の名簿を見ると我が家は現在の実家の一般電話の番号であるが、1974年当時、松代や川中島の友人の家は依然として有線電話の番号が載っていた。

山浦さんちの道を挟んで東は武田晉一郎さん宅。
中野の町に花屋さんを開いていらした。屋敷の南のブドウ畑(すなわちお墓の東側)は早いうちに売られて宅地になってしまった。

その北は武田佳三さん宅だが、あまり記憶がない。
その北は武田英雄さん。祖母の妹が、姉と同じように戸狩から岩船に嫁いだ家で、つまり当主は私の父の従弟であったはずだが、あまり交流はなかった。
14:26
武田英雄さん宅跡
姿のいい家だったが、母屋を含めすべてなくなり、アパートになっていた。
道路が広げられ、全く景色が変わった。
彼らはここに住んでいるのか、どこかに転居したのか知らない。

武田英雄さん宅の西、すなわち山浦さんの北は中島広茂さん宅。
14:27
中島広茂さん宅(左)と岩船公会堂(向こう)
中島さんちの屋号は「油や」だった。
同級生はいなかったが、不思議なことに、山浦さん宅同様、庭の様子はよく覚えている。
違う学年の子と遊んでいたのか、あるいは子どもの特権で一人でも庭に入っていったのか、記憶にない。
江戸時代からずっと入れ替えなく50軒しかなければ、部落内の各家の構成は大体知られていた。つまり当時はどこの家の子供か、だいたい分かったし、畑からそのまま地続きで屋敷地に入ったりできた。私は池の鯉やサボテンなどが好きだったから、よく他の家の庭に入り勝手に見せてもらっていた。

油やは道路を挟んで昔の岩船公会堂と向かい合っていて、道路との間には割と浅くて広い川があった。
当時、毎月廃品回収があり、リヤカーで公会堂まで集めてくると、参加賞のアイスクリームをもらって解散する。私はひとり帰らずに漫画本をずっと読み続けた。腹が減っていったん家に帰ろうとして、ふと油屋の裏の川を見ると、白いボールが一つ沈んでいた。この日、
皆がもらったアイスクリームだった。ゴム風船に入ったようなものを、少しずつ融かしながらシャーベット状のものを吸い込むのである。喜んで拾い上げ、食べようと輪ゴムを外すと、風船が縮み一気に中身が川にこぼれてしまった。

岩船は湧き水が豊富な部落で、普通に歩く道にある、どの川も水が(大げさでなく)そのまま飲めるほどきれいだったが、だんだん水量が減って汚れた。この道は平野小学校のほうへ行く部落内唯一の幹線道路だったから、いまや道路を広げるために、すべて暗渠になってしまった。

道路拡張は暗渠にしただけでは済まず、道の北にあった岩船公会堂は、少し西の道路の左、かつては消防ポンプを積んだリヤカーの倉庫だった場所、つまり油屋の西どなりへ建て替え移転した。(写真)
14:27
火の見やぐらも少し場所が動いたか?
櫓の下をコの字型にめぐるように流れていたきれいな小川が思い浮かぶ。
小さいわりに水量が多く、私の場合「春の小川はさらさらいくよ」の歌を聞けば、この川を思い出す。いまや無残な景色である。

右側は小古井弘さん宅と大きな養殖池があった。
小古井家は江戸時代に寺子屋の師匠をしていたなど岩船村でも名家であったが、最近一家で須坂に引っ越してしまったらしく、屋敷には今誰も住んでいない。この家も同級生はいなかったが、私は庭と池にはよく出入りしていたようで、今でも景色を覚えている。

少し戻り、山浦金二さんの東を入っていく。
このあたり岩船の中心である。
14:27
正面は町田喜代治郎さん宅
ここの憲一君は中学の同級生。
長屋門は、駐車場を確保するためか、東半分が撤去されていた。
樹木もめっきり少なくなった。

その手前の東(右)に堺祺佑さんちがあった。
14:28
堺祺佑さんち入口
道の脇にはきれいな川が流れていて、それと隣接して入口にコンクリート製の水槽が作られていた。湧き水は年間を通して15度くらい。夏は冷たく冬は暖かいから洗い物に便利だった。水槽からはこんこんと水がわいていて、夏の暑い夕方、この近所で汗びっしょりで走り回って遊んだとき、その水槽に四つん這いになって顔ごと突っ込んで水をごくごく飲んだ。
その川は暗渠となり、水槽はコンクリートで埋められ、車の通り道になった。

堺さんちは我が家と親せきづきあいしていたせいか、家にもよく上がって息子の堺正衛ちゃんと遊んだ。畳の茶の間に、当時としては珍しくソファーがあった。
中学に入ったとき正衛ちゃんは3年生だったが、とてもハンサムな生徒会役員でクラスの女子が騒いだので、知り合いだと自慢した。

堺さんちの裏に回る。
鬱蒼と両側に木々が迫り、水の湧く池などもあって、岩船で一番、風情のある道だった。
ところが、木は切られ、池は消えて草が生えていた。
14:28
池のあと(右)
坂の向こうは左が武田千吉さん、右が町田正芳さん。
町田正芳さんは祖父のところによくお茶のみに来て、小学生の私の手がしもやけになったとき、石油ストーブの灯油を塗ればいい、と教えてくれた人。

町田喜代治郎さん(憲一君の父)のところに戻る。
14:29
町田家の長屋門は入口部分から西だけ残っている。
小学生の頃は昼間に田んぼや庭先で遊んでいたが、高校を卒業して中学の友人たちと会うときは、夜中まで部屋でおしゃべりすることになる。大人になった町田憲一君の部屋はこの長屋の2階で、母屋から離れているから、居心地がよく、何度か友人たちと集まり、オープンリールデッキでフォークソングなどを聴いた。

14:29
左:中島祥夫さん 右:町田喜代治郎さん
二軒の土蔵に挟まれて、岩船では珍しく昔と同じ幅の道。それでも木々は切られ、景色は変わった。
14:30
憲一くんちの裏。
中学のころ、ここで中島祥夫さんちの塀をバックに憲一君とキャッチボールをした。彼は新しいキャッチャーミットをもってきて、喜代治郎さんが「憲一が新聞配達して自分で買ったんだで」と誇らしげに教えてくださった。町田家は裕福な家であったが、簡単にものを買い与えないという教育方針みたいなものがあったのだろう。

町田憲一君の裏は阿部昭男さん(黄色い塀)。
お稲荷さんのまわりの木々は切られ駐車場になっていた。
14:30
安鎮稲荷大明神
昔から町田マケの人々が祀っているらしい。

「マケ」というのは学校の勉強では一度も出てこず、信州中野あたりの方言かと思ったら、東日本を中心とした全国共通語だった。
マギ、マゲとも呼ばれ、牧、巻きなどと関係あるのだろうか、村落内での同族集団のことを言う。マケの中でも特に近い家々をウチワともいう。これに対し、シンルイは婚姻などで結びついた村落内に限らない家々、クミ(組)は村落内に置いてマケに入らない近くの家ということになる。

葬式、婚礼、家の新築、解体のときの手伝い、お祝い、子どもが生まれた時の天神さんや鯉のぼりを贈るときなど、マケというものが出てくる。田植えなどの手伝い(稲刈りなどと違って1日だけだからお祭りのよう)や、農機具の共同購入にも影響した。

町田マケは岩船で一番大きな集団で、その本家は町田憲一君の家である。中野市では西条部落の関マケが20軒以上あり有名だった。
小林マケは我が家のまわりの4軒の分家を含め、5軒あり(これがウチワでもある)、他に1軒苗字だった堺祺佑さん、武士辰一さん、町田良晴さん(町田マケには入らない)の家々が加わりグループを作っていた。
サラリーマンが増えた現在と違って、1970年代まで先祖代々同じ場所で農業を続けてきた社会では、こうした連合体が村落内での意思決定や活動に不可欠だったのだろう。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/newgeo1952/30/3/30_3_30/_pdf

岩船で一番立派な家は町田忠彦さんの家だった。
「八兵衛さんち」と、先々代?の名前で呼んでいた。
1873年創立の平野小学校(まだ平野村がなかったから4か村組合立の「愛育学校」といった)百周年記念誌には参考文献として町田忠彦氏所蔵の文書が多く使われた。
町田家所蔵文書に明治8年(1875)の欠席届が残っていて、町田八兵衛次男・常治良、小林重治郎長男・安治ら5人が「・・・養蚕田植等につき6月23日より来たる7月2日まで之間休業奉願候以上・・(父親たちの署名印)」とある(記念誌P50)
小林重治郎・安治は我が家の6代目、7代目である。

忠彦さんちは私の友達もいなかったし、専用の道の突き当りにあったこともあり、遊んだことがない。土蔵、物置に囲まれた中庭の光景は記憶にあるから、少なくとも入ったことはある。
もっぱら、親輪舎などにいくときに屋敷の裏を通るくらいだった。
14:33
町田忠彦さん宅、裏。
むかしは家の北側に中世の土豪屋敷の堀のように川があった。ほとんど流れのない静かな川だったが、岩船らしく水はきれいだった。それが他の川と同様、車社会の道を広げるため、すべて暗渠になっていた。土蔵の石垣は往時のままだったが、石垣を濡らしていた堀川部分はコンクリートで埋められていた。

町田忠彦さんちは江戸時代から立派だが、町田マケの本家は憲一君の家、町田喜代治郎さんの家だった。そういえば憲一君の結婚式の仲人は忠彦さんで、先祖代々、分家筆頭として本家長男の婚礼は仲人を務めてきたのであろう。小林マケの例から想像すると、町田マケの各家の跡取りの婚礼の仲人はすべて喜代治郎さんがしたはずである。
14:33
岩船薬師堂
昔、一時的に人が住んでいたことがあった。
ここも町田マケが管理しているようだ。数年前に通りかかったとき、町田憲一君がアメリカシロヒトリが発生した堂の裏の木を消毒しているところに偶然出くわした。

ブドウ畑を行くと県道に出る手前に岩船地蔵堂がある。
ここは南の浄清寺と敷地がつながっていて、間には金比羅大権現、天神さまもある。
14:34
金比羅大権現
6年に一度の岩水神社御柱祭には金比羅船船を歌うが、これがあるからだろうか?
14:34
浄清寺
ここに1年上の、かずえちゃんというきれいな女の子がいた。
話は一度もしなかった。
天満天神
これは地蔵堂(村が管理)、と浄清寺のどちらが管理しているのだろう?
14:35
岩船地蔵尊堂
子どものころ、一人のときは魚を捕りに田んぼへ、三角ベースで遊ぶときは岩水神社のほうに行ったから、ここ地蔵堂境内にはあまり来なかった。
本尊の木像地蔵は行基作というがもちろん信じられない。かつては岩水神社あたりにあったらしいが、度重なる夜間瀬川洪水で流され、1656年この地に移ってきたというのは信じて良い。

昔、池があったあたりに新しい歌碑が立っていた。
月が出ました鎮守の森に
わしら水田(みずた)で蛍追い
チチロ清水の湧くところ
雪が降ります あれあれごらん
わしら川辺にゃ積もりゃせぬ
(岩船小唄)
というが、知らない。

岩船信仰というのは、栃木岩舟を発祥とし、関東甲信越に広く広まっているが、栃木、越後村上、信州中野を3大岩船地蔵とする。以前ブログに書いた。
船乗り地蔵
部落名(明治初めまでの村名)にもなった地蔵だが、この日、初めて見た。

14:36
1766年安置という。木造のほうは本殿にあるのだろう。

家を抜け出して15分、トイレにしては長いからそろそろ帰ろう。
14:37
岩船は3か所にお墓がある。
ぎりぎりまでアパートが建つ。
14:38
お墓を過ぎると、大きくなった高木セイコーの三つ角にもお地蔵さんがある。
ここは昔寂しいところだった。
14:38
子どものころ、このお地蔵さんが夢に出てきたことがある。

14:39
堺さんちの上、町田正芳さん(左)、武田千吉さん(右)の間の道の上まで戻って来た。
武田さんちのケヤキは昔からこの高さに抑えられている。
この暗渠のあとを見ると、いかに岩船は多くの川を埋めたか分かる。

14:40
ここは大黒屋(屋号)という大きな家があり、東京に出て行ったあと、主なき庭にはモミジや棗の木が残り我々の遊び場だったが、早い時期に家が3,4件建った。彼らは古くからの50軒とはほとんど交流はなく、景色だけでなく、住民も変わってきた。

14:41
実家に戻って来た。ちょうど20分。
左は三井典俊さんち。ここの先代は、道を広げるとき池があるから埋めると地盤が悪いと仰り、我が家のほうが敷地を削った。しかしそのあと池を埋められた。

岩船部落は古いだけに、荷車1台が通るだけの道幅しかなかった。その両側に小さな川があり、屋敷地の道路側には樹木が生えていた。車社会になって道を広げるとき、その川、樹木をつぶしたものだから、他の土地と比べて、景色の変化が激しい。
そこに加えて駅に近いということで新しいアパートと新築一戸建てが乱立した。
中学のころ、通学区で唯一、中野の町から出前が取れるという町に近い部落だったが、それが災いし、湧き水のきれいな落ち着いた景色が消えてしまった。

なお、各家の当主の名前は1988年ゼンリン住宅地図によった。もう36年前だから亡くなった人も多い。

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