2022年3月22日火曜日

京都6 同志社大学と仮想細胞、鴨沂高校、新島旧宅

退職まであと10日あまり。3連休で京都に来た。
埼玉、東京、長野以外でいちばん土地勘のある場所。

1973 高校修学旅行
1978 武田、藤沢薬品見学旅行の帰り
  (薬学部の行事だったが、現地集合・解散、希望者のみの自由参加、大覚寺京大など)
1981 大阪で新入社員研修のとき、北川、佐々木と八坂神社いずうなど
1981 長野の親と京都見物、清水金閣など
1984 結婚した年、ゾウさん夫妻と旅行、大原嵯峨野
1990-1210,12 神経科学学術集会 京都国際会館
1995-0709-12 IBRO国際神経科学会 京都国際会館
1998-0324-26 薬理学会年会 京都国際会館
2000-0409-13 国際精神神経学会(第5回日本精神神経学会)京都国際会館
2001-0329-31 生理学会年会 京都・同志社大
2006-1204,5 細胞・生体機能シミレーション国際シンポ 京大・芝蘭会館
2009-0326-28 薬学会年会 京都国際会館 金子研
2009-0802-4 国際生理学会シンポジウム ロテル・ド比叡、白川通今出川
2017-05-17 薬剤師国家試験問題検討会、めるぱるく

これだけではない。
とくに京都に詳しくなったのは、2003年から2年間、丹波口、京都リサーチパークの野間プロジェクトに参加したから。
月に2回ほど、2泊3日くらいで45回ほど来たから、その2年間は半分住んでいたようなもの。

全部で120泊くらいしているだろう。
市内はほぼ歩き回ったから記憶もいっぱいある。
2022-03‐19 9:36
京都タワーは上がったことないし思い出もないが。

まず地下鉄で北上、同志社大学に行った。
9:59
烏丸通の西門から入る。
良心館というらしい。経済学部、文学部が入る。


10:01
どの建物もきれい
土曜、春休み、コロナ、でほとんど人はいない。

1920年(大正9年)に日本の私立大学では最も古い段階で大学令に基づく大学となった。
すなわち、2月の早慶につぎ4月に明治、日本、中央、法政、国学院とともに同志社(それまで名前は大学でも法的には専門学校)も大学となった。現在は14学部・16研究科(大学院)、学生およそ3万人を擁する。
ハリス理化学館
1890年、J. N.ハリスの理科教育寄付金10万ドルにより理化学館が竣工、
同志社波理須理化学校が開校した。

ハリス理化学校はのちの同志社大学理工学部の前身である。
しかし1894年(明治27)の広告を見ると波里須理化学校ではなく、波里須理科学校とある。
1892年に薬学科を新設した。
このことは以前薬学昔々に書いた。

別ブログ


10:06
今出川キャンパスでもっとも有名なクラーク記念館(旧神学館)

1890年新島襄死去。翌1891年、ニューヨーク、ブルックリンのB.W.クラーク夫妻から、神学館の建築費として10,000ドルの寄付が同志社になされた。23歳で早逝した息子を記念して贈られたもの。1894年献堂されたという。

今出川キャンパスは初めて入ったが、西のほうの新町キャンパスは昔行ったことがある。
21年前の2001年3月、日本生理学会の会場となった。
近年大きな学会はほとんど大都市の国際会議場で行われるが、今では懐かしいほど生理学会らしい地味な学会だった。普通の小さな教室で口演があり、階段や廊下にポスターが貼られた記憶がある。

2001年の年会で最も印象深かったのは慶応理工学部の富田勝教授の特別講演だった。
有名なE-Cellである。酵素反応にフィードバックがあると、代謝産物濃度に振動が起こる場合があるらしく、それは実際に複雑な計算してみないと分からない。どうせ計算するなら、とコンピューター内で動く仮想細胞を作ってしまったのである。
すなわち、125の遺伝子の発現、酵素反応を数式で表し、それぞれが相関しながら時々刻々と変わる速度定数、基質、産物の濃度をコンピュータで計算させる。あたかも生きているかのような仮想細胞は遺伝子KOもクリック1つですむ。細胞外のグルコースを瞬間的に0にしたあと1秒後の細胞内ATPなど、実験では求められないことも計算で予測できる。

富田教授は、シンセサイザー冨田勲のご子息で、その少し前にアサヒスーパードライのコマーシャルに出演されていたから違う方面でも有名人だった。話も面白かったので彼の自伝的エッセイ本を後日読んだ。

この講演の座長をされたのが京大の野間昭典教授だった。
ふつう座長は演者の紹介をするだけなのだが、野間先生はご自身でスライドを用意して来られ、E-Cellの前座のようにして心筋バーチャル細胞を披露された。
それは一晩中拍動していて、朝起きてちゃんと動いていると自分の心臓のようでホッとすると話された。

その2年半後、野間先生を中心にシミレーションプロジェクトが始まり田辺も参加、私に話が来たとき、すぐ、この同志社大学での学会が思い出された。もう若くなかったので数学やプログラミングに躊躇したのだが、あの仮想細胞がとても興味深く印象に残っていたので、引き受けることにした。
それまで京都は学会で何回も訪れていたが、ここから本格的な京都歩きが始まったから、同志社での生理学会は私の京都の原点ともいえる。

10:08 同志社今出川キャンパス正門から出る

このあと正門の向かい、今出川御門から京都御苑に入り、御所など見物した後、寺町通に出て同志社創立者新島襄の旧宅を見に行った。

確か新島旧宅の近くに冷泉という表札の小さな門構えの家があったと思うが、見つからず。
記憶違いだろうか?
(有名な公家屋敷の冷泉家は今出川通りに面し同志社大学に囲まれている)

11:34 
幻の冷泉邸の代わりに目についたのが府立鴨沂(おうき)高校。
1872年に日本最古の官公立の女学校(後の高等女学校)として創立された。
戦後は共学、現校名となり、洛北とともに京大進学者数の多い高校であった。しかし進歩的革新府知事だった蜷川虎三の全国に先駆けた総合選抜制の導入とともに進学実績は落ちていった。

明治天皇行幸所京都府尋常中学校と碑がある。
尋常中学というのは5校置かれた国立の高等中学と別に、都道府県に一校ずつ置かれた名門校。
京都の尋常中学は1870年、日本最古の旧制中学校として、二条城北の旧所司代屋敷(のち旧待賢小学校の校地)で京都府中学校として開校。その後、1885年から1888年までこの地(現鴨沂高校)にあり、その間に京都尋常中学に改名した。だから碑の後ろは見なかったが天皇行幸の時期は限られる。

京都尋常中学はその後、府の財政難から東本願寺に経営が移ったり、移転したり府立一中と校名変更したり、さらに移転したりした。
戦後、1948年府立洛北高校と校名変更、再びこの地で鴨沂高校となり、さらに高校再編で廃校、1950年に現校地で洛北高校として再出発した。

京都は先進的と言われる。
1918年には一中、二中、三中で総合選抜、翌年は府内全校に拡大、1923年に単独選抜に戻るが、その後入試が面接のみになったり、1937年には学科試験がなくなったりした。戦後の1950年には本格的な総合選抜が始まる。
しかし、これは先進的というより、理想だけを求めた猪突猛進、現実無視の変更ではなかったかと思ってしまう。
寺町通。左は京都御苑
あの小さな(といっても普通の家よりでかい)冷泉家はどこで見たのだろう?

この通りにある京都歴史資料館は入場無料。
だから以前にも目的なく入った。
展示よりも資料管理、行政事務などがメインなのか、展示室は小さい。
京都市歴史資料館蔵
これを見ると、道路があって家を建てるというのでなく、家(屋敷地)が整然と並んで、その間が道路になったように見える。そのくらい道幅が広い。

11:50
新島襄旧宅
新島は上州安中、板倉家の江戸藩邸で生まれた。いまの神田学士会館のあたりだったことは以前のブログで書いた。

となりは同志社校友会 新島会館

12:32 鴨川たかし
だいぶ食べてしまってから。

食べ終わるとさらに空気は冷え込んでいた。
午後は京都大学の見物。
大学は、お寺より物理的にはるかに広い分だけ、また現在動いている人がはるかに多い分だけ、見るものが多い観光資源だと思う。

2022年3月15日火曜日

大根、白菜を飽きるまで食べ続けたが


3月14日、東京は24度を超え、夏日の一歩手前。
5月並みの陽気で、冬野菜の花芽、トウが一気に伸びた気がする。
今日15日も25度に迫るらしい。

2022‐03‐14
バラのように開いた白菜の余り。
トウ立ちを始めた。

秋に種から育てたとき、苗の余りも可愛らしくて捨てるのが忍びなかった。
かといって植えるところはない。そこで敷石の間とか、通路やほんの狭い隙間スペースに植えておいた。もともと生育の悪い苗だったから、当然球はまかず、開いたまま春になってしまった。小さいのを入れれば10株ほど残っている。これらはどうしよう?

白菜は正規の場所に18株植えた。
遅かったから球を巻いたのは3株だけ、しかし18株ともなんとか処分した。
最後は食べる気がせず、冷蔵庫に2つ押し込んだ。

毎週7日のうち、2日は鍋だった。
さらに、妻は食生活を変えないから、食事が別の朝と昼に私が自分で料理してせっせと食べている。
もう食べたくない。

ご近所にあげたいが、妻はこんなに開いたものは差し上げるべきではないという。
確かに葉が開くと、間に土が入り1まい1枚洗うのは面倒だ。第一見た目が悪い。

彼女の忠告を無視して職場であげた人がいるけど、内心迷惑したかもしれない。

お互い遠慮のない身内にあげたいが、
長女は土が大嫌い、料理もほとんどしないようだ。
息子は奥さんが虫を見るとパニックになると言って持っていってくれない。
唯一次女に先日2つもたせたら、「花が咲いた~」と花瓶に刺した写真を送ってきた。

かといって潰して土に混ぜるのも忍びない。
誰かほしい人がいたらうれしいのだが・・・

野沢菜もトウがたってきた。
食卓へは白菜、小松菜と競合するので、こちらも捨てるしかないか・・・・
2022-03-15
大根2次(種まき9月19日)もトウが立ち始めた
この日も24度に迫るというので、すべて抜いてしまった。
2022-03-15
葉っぱを切り落とした状態で左から、710, 700, 680, 570, 610, 380, 340, 440, 220グラム。1キログラム以上あった第1次(種まき8月21‐25日)と比べて小さいが、最近のスーパーの品もこんなもの。
大根も第1次の17本で(一部あげたが)飽きてしまい、いまや食べる気がしない。
3本冷蔵庫に入れ、6本を地中に埋めた。
大根3次
(種まき11月2日)
サツマイモの収穫後に種まきしたから遅すぎた。
小さいままトウが立ち始め、200グラム以下だろう。食べる気がしない。
経過を見届けるため月末まで置いておく。

冬野菜まとめ

ホウレンソウとサニーレタス
青物はもう食べる気がしない。

もし野菜が本当に健康にいいなら、私はとてつもなく健康になっているはず。
草食動物のように食べている。
いっぱい食べられるように軟らかく煮たり炒めたりして体積を減らすが、胃袋の容量には限りがある。ご飯の量は変えていないので、野菜が多いとたんぱく質などの摂取が減るだろう。
(最近、間食でチーズやチョコレートを体が欲している。)

しかし、たんぱく質は多分世間で言われるほど必要ない気がする。
たんぱく質はアミノ酸に分解されリサイクルされるから、代謝、排出される分だけアミノ酸を摂ればよい。

毎週、鍋の残りにさらに野菜を追加してスープにすれば、出汁など入れなくても濃い味になる。これは野菜からアミノ酸が出ているからだ。だから昔の人は米と野菜しか食べなくても平気だったのである。

美容に糖質制限食など、根拠がないのではなかろうか。
糖質というエネルギー源が不足すればたんぱく質、アミノ酸を分解せねばならない。脱アミノ反応は腎など体に負担をかけるとまでは言わないが、無駄である。
アミノ酸をエネルギー源としたときの補正を入れて、摂取総カロリーを同じにしたらどうか? それで普段の生活をしていたら痩せないだろう。

ボディビルのような筋肉を作るには普通の人よりアミノ酸が必要だろうが、過剰な気がする。筋肉が付くのは食事よりトレーニングが大きいだろう。トレーニングすれば当然腹が減り、食べたいものが肉なら肉を食べればいいだけの話だと思う。

2022-03-15
たった一つ生っていた夏ミカンが落ちた。
今年初めて2つ生ったが、心無い人に一つもぎ取られたあと、靴下をかぶせておいた。
へたが抜けたようになっていたので自然落下か。

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2022年3月13日日曜日

65歳からの職探し5 菜園アドバイザー

 3月4日、簡易書留で大きな封筒が届いた。

待ちに待った「航空自衛隊入間基地 中部航空警戒管制団司令」から。
しかし不吉なほど薄い。
「~貴殿の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます」ではなかったが、
「誠に残念ながら不採用になりましたので、ここに通知いたします。」

けっこう自信あったんだけどな・・・・

2022-03-05
次女に持たせた野菜

入間基地の後に応募したもので採用されたものがある。
シェア畑の菜園アドバイザーである。

民間の採用試験は動きが速い。
1月12日
オンライン面談
1月27日
現地試験。野菜つくりの知識をテストされた。

問1.鍬を持ち、畝を作れ。
埼玉、千駄木ともスコップ1つですべて土つくりをしてきたので、鍬は子供の時以来。

問2. ブロッコリーが何者かに食われている。何か?
葉を見ても虫はいない。地中に隠れるヨトウムシはこの季節いないし・・・と首をかしげていたら、鳥だという。他の区画にネットをかけてあるブロッコリーがあり、そちらは食われていない。そちらを見れば推測できるのだから、注意不足の私の負け。

問3.  冬の寒さで葉が赤くなり元気のないイチゴを指さされ、利用者から質問されたらどう答えるか?
これは家でも作っているので「心配いりませんと答えます」というと
「正解です。でもほかの区画も同じ状況であることを見せれば、もっと安心するでしょう。葉が赤いのは寒さでアントシアニンが貯まったといってもいいです」
と、なかなか良い3問であった。

別にオンラインの試験があり、ナス科野菜の仕立て方や、水やり、アブラナ科のことについてテストされた。

その後、内定通知のメールが届く。

2月20日
集合研修。今月採用されたアドバイザーは4人。
他の方は練馬、千葉、浦和の農園。

2月27日
勤務地となる農園で初の現地研修
その後、土日のどちらかで週1回3時間の研修が続いている。
2022-03-13
ここは都会の遊休地を使って、手ぶらで行ける農園というのが売りになっている。
入会金 11,000円
利用料は1か月 11,900円だが、車1台分の広さしかない。 
(千駄木の駐車場、月30,000円より安いが・・・)
年間契約だから、初回払う金額は1年分で153,800円もする。
この狭さでこれは高い。
埼玉あたりの市民農園を借りている人からすれば、法外な値段に思う。
しかし、都心にはそもそも市民農園がない。

高いだけにサービスは至れり尽くせりである。
苗、種は農園が準備。有機肥料、有機農薬、防虫ネット、マルチ、保温ビニル、不織布、支柱、鍬、スコップ、じょうろ、ハサミ、麻ひも、その他もろもろも常備。水道、トイレがあるのがうれしい。
費用については他の趣味と比べればよい。
月1万円ちょっとで追加費用一切なしというのは、ダンスやほかの趣味と比べたら、格段に安いだろう。しかも親子そろっての値段。

2022-03-13
そして利用者はほとんど初心者。
そのためのアドバイザーが今回の私の仕事である。
なお、ここでの指導は、くれぐれも自己流でなく、標準化された方法に従うようくぎを刺された。

この日、3月13日は、2月27日に契約された親子がいらした。
初回講習として、施設の使い方や道具の説明をして、夏野菜のための土つくり、畝つくりを実際にやってもらった。こちらである程度引っ張ってあげないと、彼らは自分では何もできない。ここで基本を覚え、さらに欲が出たら市民農園で広いところを借りるのが良いだろう。

借りている人は、穏やかな人が多そうな気がした。

私の職探しでは、居酒屋(キッチン、ホール)とかも候補の一つだった。しかし飲食業はいろんな客がいてこちらが不快になることもあるだろう。ここ農園では太陽の下、のんびり時間が流れていてそんなこともなさそうな気がした。
製薬企業、大学についで3番目の職業人生は、週に半日2,3回というものを2つか3つやってみたい。その一つは菜園アドバイザーで良いと思った。


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2022年3月7日月曜日

島薗邸、和館破却前の最後の公開

家から保健所通りを南に歩いて5分、最寄の千駄木駅あるいは図書館に行く途中、常に眺めていたおしゃれな洋館、島薗邸。

島薗家の人々がいなくなられたあとは、たまに音楽会やら茶道、華道の会が行われているようで、和服姿のご婦人が入られるのを目にしたことがある。

第1・第3土曜に公開されていたが(入館料300円)、一度も入ったことがなく、いつか見学しようと思っていた。
ところが、2年前の3月、和館部分を壊すというお知らせがネットに出た。
最後の公開が2020年4月に予定されたがコロナで中止。
ああ、もう見れないのかな、と思いながら2年間、横を毎回歩いていた。

それが公開されるという。

2022‐03‐06 


玄関入る前に庭のほうを覗く

壁にバラが這わせてある

玄関
左手に、ちょっと座れるよう小さい作り付けのベンチがあった。

竣工年:1932(昭和7)年
1941(昭和16)年 2階増築
設計:矢部又吉(増築部 古賀一郎)
敷地面積:約485 ㎡
延床面積: 242.88㎡ (1階:175.50㎡ 2階:67.38㎡)

書斎兼応接間
多数の本を見て島薗文庫を思い出した。
東大医学図書館を入ってすぐ左の部屋は、いまPCが並び情報検索の部屋になっているが、昔は島薗文庫という表札がかかり、大きな机がいくつか並ぶ自習室だった。壁一面の書籍は島薗家から寄贈されたものだった。当時、私はシマゾノと読めたかな?もちろん島薗先生が誰かは知らなかった。

島薗家は島薗順次郎(1877 - 1937)が最も有名。
脚気とビタミンの研究で知られる。1924年内科教授、33年付属病院長。

顕微鏡の横に「ヴィタミンと栄養」(緒方知三郎、栗山重信、島薗順次郎)などの論文別刷りが置いてあった。

脚気は緒方正規、森林太郎らの東大医学部、陸軍の権威者側が伝染病説を出したのに対し、在野の北里は疑問を呈し、高木兼寛は栄養説を提唱した。帝大農科大の古在らが米ぬかに予防物質ありとするも、東大医学部,陸軍は無視、伝染病説にこだわる。鈴木梅太郎教授らが1911年オリザニンに到達したあと1914年になってもまだ東大医学部は脚気菌に固執した。

しかし海外では1912年にフンクが栄養欠乏説を提唱、国内でも1917年以降ビタミン説の支持が増えはじめ,1921年には慶應の大森らが臨床試験から脚気ビタミン欠乏説を主張した。

島薗順次郎は、須藤家から和歌山藩医島薗家の養子に入った。一高、東大を経てドイツ留学から1913年帰国後、岡山医専、京都帝大にいて、1924年東大医学部教授に就任した。1919年にビタミン欠乏説を発表している。
ずっと東大にいたら伝染病説に染まり、いったん染まったらメンツもあって簡単にはビタミン欠乏説に行けなかったであろう。

緒方知三郎は洪庵の孫、東大の病理学教室で最初は伝染病説を唱えていた。
栗山重信は大正・昭和期の小児科医学者 東大教授、国立東京第一病院院長。西片に栗山という表札があり、ひょっとしたらと思っている。


順次郎氏は千駄木町(今の1丁目)に家を建てたが、結婚した長男順雄(のりお)氏、昭子夫人(医学者三宅鉱一の娘)のために昭和7年、この家を建てた。

・長男・順雄は52年医学部教授、64年医学部長、
・次男・平雄は元宮崎大学教授。
・三男・安雄は東大医学部助教授から金沢大教授、国立武蔵療養所長

谷根千61号に島薗久子さんの談話がある。彼女は安雄氏の妻で、
それによれば、昭和12年に順次郎氏がなくなってから、長男・順雄氏夫妻が親代わりとなり、二階を増築して独身だった平雄氏、安雄氏を住まわせた。
久子氏は田宮猛雄の娘、昭和20年に安雄氏と結婚してこの家に嫁いでくる。当時長兄は軍医で千葉、次兄は兵隊に行っていた。その後、島薗安雄、久子夫妻は昭和28年まで住み、金沢へ行ったが、子供たちは、子のいない長兄夫婦の世話になり、この家から大学に行ったという。
その子というのは角南蓉子氏と島薗進氏。
お二人が今この家を守っているそうだ。

安雄の長男・島薗進氏は理三に入られたが、転学し宗教学者となった。今東大医学部は文系含めた全科類からもわずかだが進学枠があり、その分、医学部以外に進学する人も少しずつ出てきたが、当時は非常に珍しかったであろう。

サンルームと居間(食堂)
この日、受け付け、案内、監視?やらで5人ほどボランチア(建物応援団?)の女性がいらした。
居間のところにそのお一人が立っておられて、山崎範子さんだった。
森まゆみ、仰木ひろみ氏とともに地域雑誌谷根千を発行し続けた3人のお一人である。
今まで2回ほどイベントでお目にかかっているが、ちゃんと話をしたことがなかった。話をしていないのだから彼女は私のことは知らない。しかし私は書いてあるものをいっぱい読んでいたのでよく知っていた。
「川口の女子高生だった時、毎週のように団子坂を上がり鷗外図書館に行かれたんですよね?」「あら、よくご存じで」といった話から、解体前の鴎外記念図書館のことを二人で懐かしがったり、最近の汐見坂の変わりようを残念がったりした。ほぼ同年代だから記憶が重なっている。
次回お会いした時、私のことを覚えていてくださるかな?
サンルームから庭越しに和館がみえる

和館


今回敷地の東半分が売却され、小さなマンションになるらしい。
(売却ではなく分筆という話もある)
いずれにせよ、和館部分が解体され、この庭もすべて破却される。
公的支援がなければ、やはり維持は不可能である。遺族が住んでもいないのに高い固定資産税を払い続けるわけにもいかない。
台東区などはわりと残しているような気もするが、文京区というのは全く文化に関心がない。
例えば利用頻度の少ない動坂の集会所などは売ってここに移転、本郷図書館にある区役所の分室などもここに移すなどして、建物を維持できなかっただろうか? 
もっとも保存の気がないのだから面倒なことは考えもしないだろう。
和室前の縁側からサンルームを望む
藤棚に見えるのはバラだった。

昔の家らしく、台所やふろなど水回りは北のほうに集められている。
台所から廊下を挟んだ居間に料理を運ぶのに、窓が作らていた。
注文設計という感じ。

階段も天井が高い
便所4か所、ふろ2つのうち、二階の便所は新しかった。

二階洋間のステンドグラスは軍艦

二階和室
人間国宝平田郷陽作の市松人形だろうか?
窓側の仏壇のようなところには大きな観音立像があった。

洋間から東を見る
遠くに小さく見える木は須藤公園だろう。
かつてはもっと木々が見えたに違いない。

南は保健所通りが見える。

まわりはすべて低層マンションになった。

東側半分がマンションになるとこの板塀もなくなる。
ふと、樹木に合わせて塀の板を切っている箇所があった。
優しいな。
我が家は塀のほうが大事でどんどん樹木を伐採している。

内藤家、須藤家、島薗家が並ぶ保健所通り
かつては岡本銀行頭取邸、松平子爵邸、中條邸などが並んでいたが、皆なくなってしまった。

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2022年3月6日日曜日

私と薬学7 薬物代謝、フラン環の開裂とアシル基転移

 (前回からの続き)

田辺製薬の薬理研究所代謝部門でホパテ誘導体を研究している、と言っても実際は、毎日血液あるいは脳サンプルからホパテを抽出して、GC-MSの試料入り口にシリンジで注入しているだけだった。暇だから抽出法の改良とか、測定値処理ルーチンのプログラミングとかしていたが、いずれにしても些細なことだった。

要するに飽きてしまった。
学生時代に実験していたのと違って給料もらっているのだから文句を言ってはいけないのだが、そこまで考えが回らない。日払いアルバイトならいくら単純作業でも全力でやるが、銀行振り込みだと給料もらっているという意識がない。有難味がないから、ただ毎日の仕事内容で判断してしまう。1年も経つと会社を辞めたいと思うようになり、いろんな人に相談した。しかし誰もが、もう少し考えろ、という。
1982秋の社内旅行 山梨県
山口由美子、遠藤洋、菅原洋一、大野木由美、大橋元明の諸氏
私が一番まとも

退職せずに他の仕事をさせてもらうことを考えた。

所属する体内動態部門は、標識体を合成して、投与し、体内分布をオートラジオグラム(ARG)や組織定量でみたり、尿に排出されるまでの時間、量をはかったり、代謝物の構造決定、定量などをする。1日GC-MSの前に座っているのでなく、周りの人がやっているこういうこともしたかった。いろんなことをすれば飽きずに会社勤めができるのではなかろうか。

1983年、ちょうど大橋研の中で杉原重孝リーダーがアメリカ留学から戻られ主任研究員となって独立することになった。
他の仕事もやりたいと希望を出すと、それが通り、2年ほどお世話になった菅原洋一リーダーのもとから杉原研に移籍した。その1年前に臼木さんが菅原グループに入られ、私のやっていた仕事はすべてマスターされていたので、特に問題はなかった。

以前から杉原さんの下にいた中野さんは、上司の留学中から学位論文の仕事をするため一人で実験されており、杉原研は安藤英広さん、長栄操さんと私の4人で出発した。
杉原さんは毎日五時半になるとラケットをもって液剤工場の卓球場に急がれた。
東北大の農芸化学で大学院まで脂質代謝を研究なされ、入社してからも脂質と薬物のリンパ管輸送を会社業務の間に、あるいは業務が終わってから実験されていた。とにかく仕事をまじめにされ、また実験しながら掃除機を率先してかけていらした。

安藤さんはわざと頭が悪いふりをしていたのか、「金がないなら知恵を出せ、知恵がないなら汗を出せ」と自分に言い聞かせているのか、動物ケージ洗いなど肉体労働を率先してやっていらした。

さて、最初の仕事はコレステロール低下薬のTA-1801だった。
東大の獣医学科を出られた1年先輩の安藤さんはARG、組織内濃度定量など動物実験を担当され、標識化合物の合成、代謝物の精製単離構造決定など化学関係は私が担当した。



ラットにC-14の放射性薬物を投与して尿を集め、酢酸エチルで抽出、TLCで展開、フィルムで感光させると黒いスポットが4つあった。それを見て杉原さんは「うーん、ちょうどいいな~」と東北弁(花巻?)で仰った。4つより多いと手間が多いし、少ないと物足りないということらしい。

4つのうち1つ(M1)はTA-1801(エステル体)が予想通り加水分解されたものだから実質は3つである。代謝物の数が杉原さんの言うような、「ちょうど良い」というどころではなかった。この3つは奇跡のようにすべて興味深い代謝物だったのである。

まずM4。
これはM1のカルボン酸がグルクロン酸抱合されたものだった。
GC-MSですぐ分かったが、これは当時結構珍しかった。
グルクロン酸抱合自体はよくある代謝物で、多くはフェノール、アルコールのOHやアミンのNHにグルクロン酸が結合する。当時、カルボン酸のOHにグルクロン酸が付くことは理論的には考えられるのだが、実際はあまりなかった。おそらく抱合体が加水分解されやすく、室温で尿を採取したり、無神経に精製したりすると分解してしまったのだろう。

もっと大きな(興味深い)問題は、TLCで分離したと思われるM4のGC-MSをとると、単一物質でなく、ピークがいくつかあり、どれも分子量が同じだったことである。TLCでの挙動も一緒であることを考えられると、これらはM4の異性体であろう。すなわち、M4のカルボン酸がグルクロン酸抱合されることでアシル基が活性化され、グルクロン酸のOHに順番に転移していったものと考えられた。これは大発見だと思ったのだが、論文を書く段階になって調べたら、前年1982年に報告例があった。

これは分子内転移だが、もし生体高分子のOH,NH,SHなどが近くにあれは、アシル基はそこに結合することになる。M4は胆汁排泄されることもわかっていた。つまり胆のうがある種は、胆のうが危ない。当時ラット、ウサギ、犬の3種類で動態を調べることが標準プロトコールであったが、ウサギは胆のうがある。そしてヒトもある。


研究者というのは自分の仕事をなるべく意味のある、立派なようにする癖があり、私も声高に言いたいところだが、公式には言わなかった。可能性の段階で懸念を言えば、大げさになり、異常に慎重な人を心配させることになる。

そもそも大企業は石橋をたたきすぎて潰してしまう傾向がある。熱意をもってプロジェクトを進めるより会議で批判するほうが簡単だからだ。会議で評論家然とする人のほうが出世する。

TA-1801の場合も実際、しっかり見ている毒性部門から報告があってから言えばよいと思った。結局この化合物は開発中止になったが、その原因が何であったか、私は知らない。

またM2,M3は、M1のフラン環が開いた化合物だった。
フラン環はベンゼンと同じように芳香環で安定と考えられていた。
どうやって開いたのだろう?
ベンゼンは酸化代謝されるとエポキサイドができて、その三角が開けば水酸化体(フェノール)ができる。その経路をフランもたどれば、自然と酸化されM2(カルボン酸)ができる。(下図左)しかしこの経路でM3(アルコール)を作るにはM2を還元せねばならない。

そこで水酸化体でなくアルデヒドを通る経路(下図右)を考えた。
これを証明するにはフラン環5位の水素が保持されるか、抜けるか証明すればよい。




TA-1801を重水素硫酸D2SO4で加熱した。もちろん溶媒のメタノールも重水素化していなくてはならないから、そこそこ金がかかった。すると奇跡的に5位のみの水素が重水素置換された。そしてこれを投与するとM3に重水素が保持されていたのである(GC-MS, NMRのC-Dカップリング)。これはM3がM2より先にできたことを示す。

ここでアルデヒドの生成は有毒かもしれない。
アシル基転移といい、アルデヒドといい、薬物代謝は解毒機構と知られていたが、逆に有毒である可能性が強く示された例である。

こうしてM4のアシル基転移と、フラン環の新しい代謝経路ということで、TA-1801の代謝で論文を2本もかけた。
第一著者として自分で書いた初めての論文だった。

論文を書くことは業務とは関係ない。しかし製薬会社の研究所というのは製造業としては珍しく、研究者が論文発表をしていくことが伝統となっているありがたい職場だった。

1983年2月 薬理研3部
(この写真で思い出した。高橋主任は退職間際に免許を取られた。この階段から荷物を入れるときに業者の車が邪魔になった。ドアが開いていたので数メートル動かそうとされたらブレーキとアクセルを間違えられ、建物に暖房スチームを送る管に激突してしまった。優しい方であったが、お元気でいられるだろうか)

(続く)次回は東大の薬理に内地留学




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