2023年3月11日土曜日

暖かくて冬野菜トウ立ち、キャベツ定植

今日(3月10日)も暖かった。
東京の最高気温22.9度は5月上旬の気温だという。明日も同じくらい暖かそうで、3月前半に20度以上が4日以上続くのは観測史上初めてという。

3月9日までの3か月
気象庁公式サイトのデータ

こうしてみると、1月下旬は平年より寒かったが、2月に入ると寒かったのは3、10、14‐17、21,22、26の9日間だけ。19日は平年より暖かかったわけで、3月はずっと暖かい。
こうなると大根、白菜などにトウ立ち、筋が入って食べられなくなる。

2023‐03‐04
白菜はトウ立ちする前に花が咲く株が出てきた。
今年もうまく球がまかなかった。まかないと内側の黄色い柔らかくて甘い部分がないし、葉の間に土が入ってしまうし、良いことはない。さらに1月ころまでは虫がいたので人にあげられず、庭に大量に残っている。
この日、食べる予定はなかったが、成長を遅らせようと2株取って新聞紙に包み冷蔵庫に入れた。
2023‐03‐04
残っていたダイコン(一次、宮重)はトウ立ちし始めた。
ほぼ全部、1.2キロ以上のものがとれ、こちらは毎年豊作。
2023‐03‐04
こちらの大根(二次、聖護院)は種まきが遅く、これから食べようと思っていたが、しっかりとトウ立ちし始めた。

宮重は27本育ち、3本残っていたが、すべて抜いた。
トウ立ち聖護院1本とあわせ、地中に埋めた。これで1か月はもつ。

それにしても暖かい。
3月8日は東京の最高気温が21.3度。
色んな野菜が活動し始めた。
2023‐03‐08
小葱として使い、途中で根を食べればエシャロット、枯れてから取るとラッキョウ。
8-9月に植えて7月に枯れ、秋と春、二回青々となる。

意外だったのは失敗、放置しておいた秋どりキャベツ。
2023‐03‐08
秋取りキャベツ
本来11月ころ収穫の予定が発育悪く、球が巻く前に冬になった。
春になって他のアブラナ科と同様、トウがたつかと思ったら、球を巻き始めた。予想外。

2023‐03‐08
私の本命キャベツは秋どりではなく、苗のまま冬越しさせて6月収穫予定。
定植は3月下旬を予定していたが、この暖かさで鉢が窮屈な苗も出てきた。
そこで定植を早める。
しかし土地がない。
20株植えるところ、サニーレタスの横に8株分のスペースだけ作った。
2023‐03‐08
キャベツ定植完了
これだけ暖かいと虫の活動も活発になるだろう。
防虫ネットをかけた。

9日も10日も20度越え。
10日は22.9度まで上がった。
3日連続は2013年以来一位タイ。
2023‐03‐10
5月並みの陽気に白菜は黄色の花をつける。
もう食べきれない。
このまま暖かいところで育てれば枯れはしないが、食べられなくなるかもしれない。
とって室内、冷蔵庫に入れておけば、成長は鈍るが、腐る可能性がある。
どちらがいいか?
菜園のスペースを片付けたかったので、すべて収穫した。
これで冷蔵庫に3個、室内に3個、合計6個、いつか食べられるのを待っている。
2023‐03‐10
聖護院
トウ立ちがわかるよう葉っぱを除いた。
これも食べきれないので4つとも地中に埋めた。
重さを測るのを忘れた。


気象庁公式サイト ホーム > 防災情報 > 2週間気温予報
から。
3月のいじょうな暖かさはこれからも続くようだ。

2023年3月10日金曜日

芝区役所、共立薬科、京橋区役所

先月から東京23区の地図を集めている。

3月1日、午前中、地下鉄一日乗車券を買って、あちこち区役所をまわり地図をもらった。
午後は練馬区光が丘のダンスパーティ会場で練習しようと思った。しかし多くの年配者がのんびりダンスを楽しんでおり、競技用の練習はできなかった。
そのため会場を退出したのだが、やることもない。そこで再び都心に戻り、残っている港区、中央区の地図をもらいにいく。

都営大江戸線で光が丘駅を14:12に発車。
直通で浜松町のそば、大門駅に14:53到着。

練馬区光が丘から直通、20.7キロ、41分ということは、西川口―浜松町間(20.9キロ、41分、京浜東北線各駅停車)と同じだ。
15:05 港区役所
浜松町や増上寺は数えきれないほど来ているが、区役所は初めて。
1987年竣工。ここは芝区役所があった場所。
戦後、芝、麻布、赤坂の三区が合併したとき港区役所は芝区の庁舎をそのまま使った。

さて、区役所に入ってすぐ、総合案内所で地図について聞くと、今4月に新しく発行するため、在庫はないという。
え? そんなことある?と内心思う。
普通は4月過ぎても余った古い版がなくなるまで全部配布するようにして、順次切り替え、在庫を切らすことはしないだろう。
「一部もないんですね」と丁重に確認して、「そうです」と言われ諦めた。足立区に次いで二つ目の欠損区となった。ま、全部なくなるなんてありえないから、どこかの支所に行けば一部くらい残っているだろう。
15:07
港区役所はさすが、なんとなくおしゃれな空間だった。
地図をあきらめ、区役所各階の案内パネルを見ていると11階にレストランと書いてある。上がってみた。
15:09
レストランは閉まっていたが、東京タワーや増上寺がみえた。

違うエレベーターで一階に降りたら、扉が開くと先ほどのロビーではなく、窓口の並び、多くの区民が行きかうところだった。さて出口はどこだときょろきょろしたら案内の人に「どういうご用件ですか」とすぐ声を掛けられた。何も言わないのも挙動不審なので港区全体の地図があるかどうか聞くと「あります」とすぐ持ってきてくれた。

たまたまエレベーターに11階に上がったこと、たまたま別のエレベーターで降りたこと、たまたまきょろきょろしていて声を掛けられたこと、偶然が重なり幸運となった。

嬉しい気持ちで区役所を後にする。
15:14
港区役所の隣は慶応大学薬学部。
学生時代1979年?に学園祭のパンフレットを売りにきたら自治会室に案内され、たむろする何人かの女子学生の中にはたばこを吸っている人もいて驚いた。また1991年ころ薬理の鈴木岳史氏の研究室に二度来たこともある。当時は共立薬科大学で、こんなにきれいな建物ではなかった。2008年慶応に吸収されてから新築したのだろうか。

今薬学部教育は(特に私立は)薬剤師国家試験以外には役に立たない詰め込み教育をしている。6年もあるのに、基本を十分教えられず、若者の能力を無駄にしている。国公立はまだましだが、慶応はどうなんだろう。偏差値の高い優秀な学生が入っても、暗記と実務実習ではちゃんとサイエンスを考えられる人材とならない。
15:15
増上寺の前の道は日比谷公園の東縁から南下する日比谷通り。
箱根駅伝のコースで、スタートの大手町読売新聞社前から10分くらいで走ってくる。
また、江戸時代は将軍が通る御成門からの道で、ここから西は本院、東は学寮と子院が並んでいた。

来た道を戻る。
15:22
浜松町駅方面から増上寺大門を振り返る。
1985年5月、中国自由旅行をしたとき(自由という意味は、当時、ふつうは団体旅行しか行けなかった)、中国国家旅游局の東京事務所に無料の地図やパンフレットをもらいに来た。その場所は写真の左側だと思ったのだが、今当時の資料を探したら、浜松町1‐27‐13 八大浜松町ビル6階とあって、右のほうだった。

15:25
浜松町駅の西、世界貿易センタービルの解体現場。
1979年7月の午後、ここの39階のレストランで共立薬科大の女子学生と2対2くらいで食事だかお茶を飲んだ。ちょうど研究室旅行で竹芝桟橋から新島に行く日で、夜出航なので、その前に会ったのである。昼の眺めを覚えているが別の日か?

世界貿易センタービルは、1970年竣工、40階、162メートル。霞が関ビル(36階、147m)に次いで日本で2番目に古い超高層ビルだった。翌年、西新宿に京王プラザホテル(47階、169m)が建つまで高さ日本一だった。
2021年6月の閉館の前に一度来たかった。

それにしても、赤坂プリンスホテル新館(40階、138メートル、1983年開業、2011年閉鎖)を抜く、解体高層ビルでは最大である。都心の再開発でごちゃごちゃした小さな建物など壊し高層ビルを建てるのは分かるが、これほど大きなものを壊さねばならない理由が分からない。

次は中央区役所に行くため、大門駅から再び大江戸線にのる。
築地市場駅で降りる。
地上に出ると国立がんセンターの裏だった。中央市場通りの向かいは朝日新聞本社と国税局。
西に半地下のC1首都高都心環状線が走っており、この側道に沿って北上すれば中央区役所に行く。
15:46
よく耳にする新橋演舞場に出くわした。
舟木一夫ショーのポスターが貼ってあった。

15:50
采女橋
下を首都高が走る。
ここは、かつては運河というか濠というか、海につながる築地川で、築地本願寺のある一角を島のように区切っていた。しかし昭和30年代、東京オリンピックの前に埋められて首都高環状線になってしまった。川にかかっていた橋はそのまま跨道橋になったようだ。采女橋は関東大震災の復興事業として昭和5年にかけられた。

采女橋を西から東に渡り、高速道路の側道を北上、萬年橋、祝橋、亀井橋をすぎると築地警察署の次に中央区役所があった。三吉橋の手前の角になる。

入ってすぐ総合案内所で尋ねると、二階に行くよう言われ、地図はすぐもらえた。
16:04
一階に戻る。中央区役所一階窓口

中央区は日本橋区と京橋区が合わさってできたが、今の区役所は京橋区役所の場所である。
ちなみに、旧日本橋区はすべて「日本橋○○町」と町名に日本橋が付く。
16:05
中央区役所をあとにし、三吉橋(みよしばし)から振り返る。

いま首都高が走る築地川は、東から流れてきて、この地点で屈曲、南に流れていた(どちらが下流か知らないが)。また、北方には楓川が日本橋川から八丁堀まで流れていた。震災後の復興事業で、両方の川をつなぐ運河が掘られ、築地川のこの地点は三つ又になった。
この三つ又にかけられたのが三吉橋である。

橋を渡り区役所からまっすぐ西に歩くと(銀座柳通り)、銀座1丁目交差点に出た。
銀座一丁目は銀座の一番北であるから、銀座というのは、そっくり京橋区だったということだ。(日本橋○○とはついていないし)
もっとも銀座は銀座通りの北端、京橋という橋から南端(八丁目)の新橋という橋までだった。新橋を渡れば芝区だったということを考えれば当たり前だが。

(中央区は濠というか運河が多かったから、○○橋という地名が多いが、今はほとんどの水路が広い道路になって水辺は消え、橋は地名としてだけ残っている。今、水辺が残っていたら外国のような美しい風景が作れたかもしれない。

なお、この日で足立区を除く東京22区の地図が集まった。



2023年3月9日木曜日

練馬区役所展望ロビーと光が丘団地

東京23区の地図を集めている。2月までに15区まわった。

3月1日、練馬区の光が丘区民センターで午後からダンスパーティに行くことになり、この日は地下鉄一日乗車券を買って、できるだけ23区内を周ろうと思った。

朝から効率よく江東、千代田、中野、杉並の各区役所を回れた。
次は練馬区。

杉並区役所を出て時計を見ると12:02。
区役所の真下にある丸ノ内線南阿佐ヶ谷駅を出発。

光が丘には13:15に行けばよい。
練馬区地図は、最悪、光が丘区民センターでもらおうと思ったが、余裕ができたので確実に地図のある練馬区役所に行こう。幸い、区役所は都営大江戸線で光が丘の手前、練馬駅のそばにある。途中下車すればよい。

12:11 中野坂上駅に到着、乗り換え。
12:18 深いホームから大江戸線が発車。
12:29 練馬駅着

練馬駅は地下に大江戸線、二階に西武池袋線があり、西武豊島線との分岐駅でもある。1994年からは小竹向原駅から来る有楽町線も乗り入れている。区役所の場所としてふさわしい。
2023‐03‐01 12:36
目白通りと練馬区役所。
ここは初めて歩くが、見慣れている。
長野までの高速バスは練馬インターに上がる前、左の区役所前の停留所で乗客を乗せる。息子にレンタカーを運転してもらうときもここを通って高速道路に乗る。

ここに目白通りの上を横断する構造物がある。
毎回、車からぼんやり見ていたが、西武線か、あるいは練馬駅の一部だと思っていた。

12:38
ところが近くに行くと、区役所への専用歩道橋だった。トンネル型連絡橋を渡り、役所に入るとすぐ案内ブースがあり、区の全体地図について尋ねると、すぐ下さった。
12:39
地図をもらった案内ブースから1階を見下ろす。
なかなか立派な区役所である。

「牧野富太郎博士 NHK連続テレビ小説のモデルに」という垂れ幕があった。

牧野は江戸時代末期、文久2年(1862)高知県生まれ、家は造り酒屋で裕福だったが小学校を中退、植物採集に熱中した。19歳で上京。1957年に94歳で亡くなるが、大正15年(1926年)最後の31年間は練馬区で過ごしたという。
1500種類に上る植物を発見、命名。40万もの植物標本を収集したというから、都心よりも緑が多く広い土地が得られる練馬に住んだのだろう。
もっとも、派手な研究業績と多数の著作とが、帝大など権威者側から疎まれ、47年間も助手の地位にあり、彼らのいた本郷、小石川などより練馬のほうを好んだのかもしれない。
大泉学園駅から徒歩7分の邸宅跡は1958年から公開され、いまは区立の記念植物園になっているらしい。いつか行ってみよう。

さて、練馬区役所は、来るとき目白通りから見ると高いビルだった。
ひょっとして、とエレベーターのところに行くと21階建ての20階は展望ロビーになっている。もちろん高いところが好きな私は上がってみた。
12:42 北東方面
手前、右下に目白通り、右の遠くに白い塔が見えるのは池袋の清掃工場。
窓の手前に2012年撮影の写真で説明版があった。
12:43 北方
中央の緑地は豊島園。2012年の説明写真では遊具が写っているが、2020年に閉園し、今、遊具は見えない。
その向こうの白い塔がある一帯が光が丘だという。

12:44 西
富士山がうっすら見えた。
12:46 南東方面
左方向に新宿の高層ビル群が林立する。
近くの豊玉小学校の西の道路の延長線上に小さく見えるビル群は、2012年の写真には何もない。
たぶんこの10年で変貌著しい渋谷駅だろう。

12:48 東方面
目白通りの先は池袋のビル群
さらにその先にスカイツリーが見えた。
ちなみに地下鉄大江戸線は目白通りの下を東に進み、山手通り(環状6号、下をC2首都高中央環状線が走る)にぶつかると、それに沿って西新宿まで南下する。

時間がないので急いで降り、区役所から地下鉄練馬駅に向かった。
パーティ会場で待ち合わせする人に、少し遅れる、とラインする。
12:56
練馬駅そばに懐かしい雰囲気の本屋があった。

少々遅れたが光が丘区民センターにつく。
2015年、娘のバレエの発表会に来て以来。
高層住宅のほか、公共施設、公園、学校、スーパー、ショッピングモールなどが集まっていて暮らしやすそう。

区民センターの多目的ホールに上がる。
ここのダンスパーティは練習がてらに初めてきた。
おそらく皆、光が丘の住民であろう、多くの年配者たちがダンスを楽しんでいた。この雰囲気だと、パートナーと練習をすれば迷惑になりそうだった。はるばる来たけど、早々に出た。
14:02
光が丘区民センター(右)
14:03
左の光が丘IMAは駅直結のショッピングモール。
練馬区最大の商業施設で、中にIMAホールがある。
清掃工場の白い塔は練馬区役所からも見えた。

この並木の先に広大な光が丘公園が広がるが、行かなかった。

この一帯は戦前、大根などの畑だったところに1942年、成増陸軍飛行場ができた。
戦後、GHQに接収されて米軍家族住宅のグラントハイツになった。1973年、全面返還され都営、公団の光が丘パークタウン(光が丘団地)と光が丘公園が造成された。
1983年住宅への入居が始まった。広大であるため、住居位置によって東上線の成増・下赤塚、有楽町線・副都心線の成増・赤塚・平和台、西武池袋線の練馬高野台へ徒歩・バスなどで出たらしいが、1991年に大江戸線が開通した。

(続く)

2023年3月8日水曜日

地図を求めて千代田、中野、杉並区役所へ

東京23区の地図を集めている。残りは東部2区、都心3区、西部2区。

3月1日、この日は地下鉄一日乗車券を買って、できるだけ周ろうと思った。
朝、8:40過ぎに千駄木の家を出て、東部2区に向かう。
足立区北千住の区民事務所では、地図がないと言われ、足立区千住庁舎まで脚を延ばしたが結局得られず。
そのあと日比谷線、東西線を乗り継いで東陽町へ。
江東区役所では、すんなり地図をもらえた。
急いで駅に戻る。

10:37 東陽町駅発
家を出て2時間たつのに、まだ地図は一つ。

この日は13時15分までに練馬区光が丘のダンスパーティにいく。
あと2時間半しかない!

西に向かう地下鉄の中で、これから都心3区と西部3区の全部を周るのは不可能と判断した。都心3区は直線距離は大したことがないが、地下鉄の乗り換えは意外と時間がかかる。今回割愛して、西部3区を優先することにした。
しかし千代田区役所は、いま乗車中の東西線沿線(九段下)にあるので、途中下車で立ち寄る。

10:53 九段下駅着
10:58
千代田区役所(左)。右は北の丸公園。
2017年3月に来た東京法務局の手前である。
11:00
庁内に入るとまるで丸の内の大企業本社のよう。
さすが23区のトップ、千代田区。
2007年竣工、1階から10階までが区役所で、11階から23階は国の出先機関が入っている。
11:01
総合案内ブースで地図がほしい旨を伝えると二階の案内所にあるという。
11:02
エスカレーターで上がるとすぐ窓口案内所がありそこで頂いた。

区役所の前は北の丸公園に上がる清水門への入口だが、2017年にくぐった。今回は時間もないので行かない。
区役所の向かい、お堀端は千代田会館、その北隣は九段坂病院だが、新庁舎ができるまで、千代田区役所はここにあった。南西部に広がっていた麹町区の中では、北東の神田区に最も近い位置にある。(両区の境は日本橋川)
真新しい九段阪病院の隣に九段会館がある。

ブログ
11:03
九段会館テラス
九段会館は、もともと遺族会が管理していたが東日本大震災で被災、補修できず国に返還。2017年来たときは工事中だったが、完成していた。通りに面したところは昔のままに残し、うしろに17階建ての高層ビルができ、昨年10月開業した。九段会館テラスと名を変え、6階から17階はオフィスが入る。
ここは学会などでも入ったことがあり懐かしく、中を歩きたいが、写真だけとって駅に急ぐ。

11:07 九段下駅発
千代田区地図入手には、電車の待ち時間を入れても驚異のわずか14分の途中下車で済んだ。
この調子で行きたい。

東西線は飯田橋を過ぎると終点中野までガラガラに空いた。
11:22 中野駅着。
メトロが乗り入れているのだから当たり前だが、JRの乗客と混じりながら、いつものJR北口改札を出る。
11:26
中野サンプラザの左隣が中野区役所
以前、ブログに書いた。

11:28
わりとこじんまりとした中野区役所
地図も23区で一番小さかった。
(番地も載っていなくて、がっかりするほど)

区役所を出て中野サンプラザの東、つまり駅の下を南北に通る中野通りを速足で南下する。通り沿いには安くて旨そうな食堂が多い。独身男性には暮らしやすそうだ。

11:41 地下を丸ノ内線が通る青梅街道に出る。
11:47 新中野駅を発車
11:52 南阿佐ヶ谷駅着
11:58 杉並区役所
トイレに寄ったり出口を間違えたりしてやっと地上に出ると真上が杉並区役所だった。
ロビーに立って訪問区民の世話をしている案内嬢に地図が欲しいというと「はい、ございます」と笑顔で「今持ってまいりますので、お待ちください」という。速足の後姿を見ていると入口に向かい、そこから地図を持っていらした。

12:01
杉並区の地図は区報と一緒に、入口に「ご自由にどうぞ」と置いてあった。

その置き場の上の壁にも大きな地図。
眺めると杉並は、ほとんど歩いていないことに気が付いた。

1976年ころ、井の頭線沿線の永福町、浜田山あたりで訪問アンケート調査をしたことがある。2日間ほど閑静な住宅街を歩いた。久我山は長野県学生寮みすず学生会館があり古幡優一君らがいたし、ダンス講習会で2回ほど久我山会館に行った。
しかしそのあとは全く杉並に用事がなかった。

1995年、海軍短期現役士官(薬学)で戦艦日向に乗っていらした阿部久二先生のご自宅、2011年、千駄木の家の売買契約した住友不動産荻窪支店、2019年、ダンス練習に行った荻窪地域区民センター(駅に戻る途中、荻外荘の前を通った)、そして2023年、先日2月23日にダンス競技会のあった荻窪体育館。この28年で行った杉並区5回はすべてJR荻窪駅南口である。

地図を見ながら、今度は区の中央、善福寺川沿いの和田掘公園、JRの高円寺、阿佐ヶ谷の商店街など歩いてみようと思った。

(続く)

前回のブログ

2023年3月6日月曜日

地下鉄一日乗車券で北千住と東陽町イースト21

東京23区の地図を集めている。

1/24 豊島、新宿
2/13 文京、台東
2/14 渋谷
2/16 北
2/17 板橋
2/21 荒川、葛飾、江戸川、墨田
2/22 世田谷、目黒
2/27 品川、大田

以上15区の窓口に行き地図をもらい、あと8区。
東部の足立、江東、
都心の千代田、中央、港、
西部の練馬、中野、杉並が残っている。

3月1日、この日は午後、練馬区光が丘のパーティに誘われた。
この機会を逃すと練馬区なんて行く用事がない。ついでに杉並、中野も回ろう。
朝から回ればほかの区も行けるのではないか?
そこで地下鉄一日乗車券を買った。
2023‐03‐01 8:53
千駄木駅ホームにて、地下鉄一日乗車券。
自動券売機で買える。都営も乗れて900円。
ちなみに千駄木から光が丘までは片道423円。

まず向かったのは千代田線で3つ目の北千住。
9:02着。
足立区の南端だが、区役所出張所の区民事務所がある。
9:09
千代田線ホームから地上に出るのは時間がかかった。
区民事務所は北千住駅前の丸井の中にある。

平日の朝だと改札口に急ぐ人ばかりで、買い物客のいない丸井も、出張所用の入口しか開いていなかった。直通のエレベーターで上がり、地図がありませんかと、来所者の案内をしていた女性に聞くと、窓口の女性に確認に行った。
戻ってこられて、足立区には無料の地図はないという。
有料地図なら区役所にあるが、ここにはないという。
9:14
今まで15区を訪ねたが、行ったところはすべて、出張所であっても地図はもらえた。
そんなことはあるのだろうか? ないというのは本当だろうか?
防災地図とか、街歩き、観光地図とか、何かあるのではないか?
納得できず、区民事務所を後にする。

北千住付近の地図をみると、旧日光街道を少し南へ行ったところに足立区千住庁舎というのがあった。そこに行ってみよう。
9:16
駅前通りはどことなく地方都市を思わせる。
旧日光街道にぶつかり南に曲がる。
9:18
旧日光街道は、北千住駅前通りから南は千住本町商店街という。
この道は何回か通っている。
ブログ

9:20
歩きながら左(東)を覗くと、文化財的な歯科医院の看板が見えた。
今昔のブログを見たら、2年前に来た時もこの写真を撮っていた。

そのときこの写真左側の高層マンションは工事中だった。
実はこの敷地は鴎外森林太郎の父が開業した橘井堂(きっせいどう)森医院があったところ。
9:22
二年前フェンスで覆われていた周囲はすっかり整備され、周りこむと森鴎外旧居橘井堂跡という碑が建っていた。
森林太郎は東大在学中は竜岡門付近に下宿していたが、明治14年に卒業してから17年にドイツへ留学するまで、ここ千住から三宅坂の陸軍病院まで人力車で通った。

日光街道をさらに南下、千住一里塚跡などがある大踏切通りを過ぎると、左に千住庁舎がある。
9:27
千住庁舎
9:28
しかし中に入ると、足立福祉事務所、千住保健センター、子育てサロンなどが入る病院のような雰囲気の施設で、一般人相手の窓口もなく、とても地図がもらえるような場所ではなかった。

早々に退散し、駅に向かった。
しかし地図を諦められない。
9:32、足立区役所に電話してみた。
自動音声ガイドではなく、ちゃんと案内嬢が用件を聞いて担当部署に回してくれた。

確かな情報として、やはり地図は一部100円で販売しているという。防災マップもないのかと聞くとこちらも100円で冊子になっているらしい。またそれらは区民事務所などにはなく、本庁にしかないという。
東武線の梅島駅から徒歩12分というので、今回はとても行く気にならず、諦めた。

次の目的地は江東区。

今まで地図をもらうには、区役所だけでなく、支所、出張所も含め、駅に近い施設を訪ねていたが、やはり区役所がいい。墨田区役所、品川区役所で分かったが、区役所は大きいから、入口近くに総合案内所があり、地図をもらうのがスムーズ。そして出張所などには在庫がないかもしれないが、区役所ならば(もし、あるなら)確実にある。
また、区役所は区の顔であり、様々な23区の雰囲気が分かる。

うまり、北千住から江東区役所にいく。
幸い、地下鉄の駅から近い。

北千住駅に戻り、日比谷線の始発電車に乗る。
いったん千代田線の地下に入ってしまったら日比谷線は一番上の3階だった。

北千住は多数の路線が乗り入れて、その利便性から今、住みたい街ランキング上位の駅だが、朝の通勤は大混雑なのではなかろうかと思っていた。しかし、日比谷線の始発電車はガラガラだった。
時計を見ると9:44
家を出てから1時間経ってしまったのに、まだ地図は1枚もゲットしていない。
茅場町で東西線に乗り換え。
10:14東陽町駅に到着。
10:18 東陽町駅
永代通りと四つ目通りの交差点

地下鉄入り口が、洪水時に備え道路より高くなっている。
この駅はダンスの競技会がホテルイースト21でよく開かれたので、2005年と2006年に2回ずつ、最後が2015年、合計5回来ている。

江東区など東部の地域は景色に変化がないため、何度来ても東西南北が分からない。
地下鉄出口の交差点にある地図は、案内板に立って見ている方角が上になるよう描いてある。北が上になる地図よりも、向いている方角が上になる地図を好む人のほうが多いということだろうか?

地図を見なくても、江東区役所はイースト21に行くとき前を通っていたので道は分かる。しかし、何回も来ているのに、今回、地図を見て区役所が駅の北にあることを初めて知った。
10:21 江東区役所着
足立区と違い、地図は一階の一番近い窓口ですぐ下さった。江戸川区と同じく、ハザードマップなどと一緒に「暮らしの便利帳」に挟まった転入者用のキットであった。地図だけで良いですというと抜き出してくださった。

「ここにいてはいけません」という江戸川区のハザードマップはインパクトがあったが、江東区もほとんどが埋め立て地。心配になる人もいるだろうが、国土地理院の等高線地図を見ると近年の埋め立て地はむしろ江戸時代からの陸地より標高が高い。

埋め立てというと、江東区は埋め立てによって陸地が大きく増えた。
明治15年に11平方キロ(のち深川区、城東区となる相当地域)だったのが、大正時代に15平方キロ、昭和15年に20平方キロを越え、私が上京した昭和50年に31平方キロ、今は40平方キロと3倍以上になっている。
いま立っている区役所前も東京湾から大分離れているが、仙台掘川の南、木場の東だから明治時代は波打ち際だった。
今、江東区は豊洲、有明も含め(フジテレビお台場は港区)、区の形もすっかり変わり、面積は6位、人口は8位まで増えている。埋め立てのなかった北隣の墨田区などを大きく引き離した。

さて、
上の区役所の写真でも見えるが、すぐ先の左のほうにイースト21が見えたので懐かしくなってちょっと足を延ばしてみた。
10:28
イースト21、の入り口
虎ノ門のホテルオークラの系列である。

10:30
イースト21の前の横十間川親水公園

ダンスで来たときは東西南北を気にせず、また知識がなかったから気にならなかったが、横十間川は江戸城から見て横、つまり南北に伸びる掘割である。しかし、ここは東西である。はて? 
いま地図を見たら、横十間川は錦糸町駅のそばの猿江恩賜公園の東を確かに南北に流れているが、江東区役所の北で西に曲がり、東西方向となり、この先、西側で南北に並行する大横川につながっていた。
2015年最後に来たとき、ダンスは二回戦で敗退し、時間があったのでこの遊歩道を西に歩いて木場公園まで行ったことを思い出す。

初めて東陽町にきた18年前、2005年は競技ダンスを始めて半年、JDCのノービス級で49組中6位に入った。
翌2006年、3回目に来たとき13組中2位となってD級に昇級した。
最後の8年前、2015年は6人目のパートナーとDSCJのB級になっていて、翌年のA級昇級を決め、一番熱心に踊っていたころだった。
年月は速い。いつまで踊れるだろうか。

(続く)