2021年9月25日土曜日

さだまさしの荒川、木根川橋と四ツ木橋

先日たまたま墨田区の白鬚神社に来たときさだまさしを思い出した。

しかし「木根川橋」という歌に出てくる白鬚神社は、葛飾区らしい。

9月11日午後、自転車で台東区の向こう、墨田区の玉ノ井あたりをうろついたとき、木根川橋まで行ってみようと思った。しかし曳舟の鳩の街で16:40。

久しぶりのママチャリ、かつ遠乗りですっかり疲れた。
尻はサドルで擦れているかもしれない。
高さが合わないから膝が曲げっぱなしで痛くなっていた。 
ここから葛飾区まで行ったら真っ暗になるどころが体が壊れるのではなかろうか。
でも、せっかくここまで来ているのだから、と東に向かってペダルをこいだ。

といっても、このあたりは墨田区南部や江東区などと違い、東西南北に区画整理されていない。まっすぐ東へ行く道が(信じられないことに)一本もないのだ。

狭い道をくねくねしているうちに曳舟川通りに出た。
ここは文字通り、江戸後期から明治にかけて人や荷を乗せた船を岸から引っ張って運んだ。
まっすぐな運河の両側が道になっていたから、埋め立てると広い道になった。

地図がない。
目的地も決めていない。
スマホ検索は電池が残り少ないので使いたくない。

とにかく東のほうにある荒川に出れば何とかなると思ったが、墨田区の北部は国道6号、曳舟川通り、八広中央通り、と、まっすぐな道はすべて北東にむかっている。遠回りだろうな、と思いながらひたすら自転車をこいでいると、ようやく荒川の堤防に上る坂が見えてきた。
その手前に大きな交差点。
2021‐09‐11 16:59 更生橋交差点
橋というのは曳舟川通りが確かに川だったことを示す。しかし更生ってなに?
少年院でもあったのかな?
調べたら、写真左のほうにある八広小学校の場所には平成15年まで墨田区立更生小学校があり、木下川小学校、第五吾嬬小学校と統合され、現校名になったようだ。

もう一つの疑問。歩道橋に国道6号水戸街道と書いてある。
6号は西側を並行して走っていたはずだが?
バイパスという意味か。
17:01
更生橋交差点を渡ると堤防への上り坂。
新四ツ木橋。
目的の木根川橋ではなかった。
1973年竣工。上部には何の構造もなくだだっ広い。

17:03
野球をしている。向こうは京成押上線のトラス橋

遊歩道テラスあるいはカミソリ堤防で狭い隅田川と違い、明治期に田園地帯を掘削された荒川(放水路)は広い。金八先生は見ていないが、こんな感じの場所かな。
ちばあきおの墨谷二中、墨谷高校の舞台はここだろう。

堤防に沿って木根川橋まで行くつもりだったが、降りる道がない。
ここまで来たら長い橋を向こうに渡るしかない。
いよいよ千駄木の家が遠くなる。

左は国道6号本線が並行して走る。あちらは四ツ木橋。
1952年竣工。中央部のみアーチがある。
遠くに見える黄色の小さな橋は、火災事に葛飾区民が綾瀬川を渡って荒川河川敷に逃げる堀切避難橋。

17:06
渡り終わるころ綾瀬川が並行している。
橋が終わると国道6号本線と合流する。

埼玉桶川あたりに始まる綾瀬川はかつて東南の中川に流れ込んでいたが(古綾瀬川)、江戸時代、隅田川まで運河が掘られ(新綾瀬川)、隅田川との合流点を鐘ヶ淵といった。
大正時代に荒川放水路が掘られてから、綾瀬川の水はほぼ古綾瀬川の跡、すなわち荒川の東に沿って中川に入っている。
荒川下流河川事務所公式サイトから

明治11年
曳舟川、中井掘、古綾瀬川の直線的な水路が目立つ。
後年、荒川掘削で移転する浄光寺、薬師堂も昔の場所に書いてある。

荒川放水路事業は明治44年(1911) に着手、三代に及び昭和5年(1930)に完成した。土地買収は1098町歩(東京北区の面積の半分)、ほとんど田畑だったが、それでも1300戸が移転した。

今までの河川と比べ、なぜこんなに広いかというと、岩淵地点における明治40年の洪水での推定流量に基づく。隅田川が今の幅でも氾濫しない流量として毎秒830立米とし、その4倍の毎秒3,340立米を荒川放水路に流そうとしたからである。
17:06
ようやく堤防に降りられる。左・綾瀬川、右・荒川
誰もいない堤防道を猛スピードで下流に向かって飛ばす。
気持ちいい。
向こうに見える京成線はいったん堤防から降りて鉄橋をくぐる。

17:09
ようやく木根川橋
竣工は1969年(昭和44年)2月

ウィキペディアによれば、さだまさし(1952年4月生まれ)はバイオリン修行のため、長崎の小学校を卒業した1965年、単身で上京した。
葛飾区にすみ、この木根川橋近くの中川中学に通った。
そのあと中学3年から市川市菅野にうつったが、卒業までは京成で四ツ木まで越境通学した。
高校は市川から国学院に通ったため、葛飾は遠くなっただろう。
すると彼がここを去った1968年3月はまだ木根川橋はなく、歌のモデルになったのは旧四ツ木橋ということになる。(別ブログ)

国土地理院1963‐06‐26撮影
上から四ツ木橋(国道6号)、京成線、旧四ツ木橋、水道橋

木製だった旧四ツ木橋(1922年、橋脚は鉄筋コンクリート)は1969年に解体され、100メートルほど下流に同年竣工したのが木根川橋である。既に1952年に国道6号の橋ができ、そちらが四ツ木橋の名を継ぎ新四ツ木橋と言っていた。10年以上、新旧の四ツ木橋があったから今さら(新新)四ツ木とも言えず、木根川橋としたのだろう。

国土地理院1975‐01‐20撮影
1970年代になって、金町浄水場から墨田区、江東区に浄水を運んでいた水道橋が撤去された(上の航空写真には河川敷に跡がある)。また国道6号の四ツ木橋のすぐ下流に曳舟川通りからの新四ツ木橋ができた(1973)。

1975年の写真を見れば、4つの橋に関しては今と同じになっている。
左下の空き地は60年代まで工場、倉庫のようなものが見えていた。
戦前、京成向島駅(八広と曳舟のあいだ)から西に延びていた京成白鬚線と京成押上線がつくる三角形にある。ミツワ石鹸があったらしい。
今は八広五丁目アパート、都立支援学校や八広公園がある。

17:10 きねがわばし(綾瀬川を渡ったところ)

この自転車はライトが点かなかったな~
と思いながらも、せっかくここまで来たのだからさだまさし「木根川橋」に出てくる白鬚神社や水道路をみてみたい。

急いで回ることにした。
(別ブログ)

・・・・
さだまさしの出た中川中学などを見て木根川橋まで戻ってきた。
かなり急いだが40分経っていた。
17:50 きねがわばし
日没した方角にスカイツリーが見える。
文京区からだいぶ東に来てしまった。

17:51
葛飾区側の野球グランド。土曜午後の練習はもう終わったようだ。
写真左には綾瀬川があり、葛飾区側からは東四ツ木避難橋で河川敷まで逃げてこれる。

なお、木根川橋の両側は行き止まりで道がない。
おそらく両岸の墨田区、葛飾区で区画整理を行い橋の完成と同時に広い道を作ろうとしたのだろうが、都市計画はとん挫したようだ。

そのため木根川橋を墨田区側に渡ると、堤防の上で丁字路になる。
  左:平井、亀戸、右:明治通り
とある。
平井亀戸なんて千葉のほうじゃないか。大変だ。
そこで右の堤防の上を少し走り、旧四ツ木橋についていた道路に出た。八広中央通りである。

ふと、1923年の関東大震災のとき旧四ツ木橋のたもとで無実の朝鮮人が虐殺されたことを思い出した。前年までの橋梁工事や、本所、向島の工場に働いていた朝鮮人が多く避難してきた場所である。

ちょうど先月、両国被服廠跡の悲劇をブログに書いた。ついでに震災時の混乱についていくつか読んだばかり。デマを信じた一般日本人が各地で自警団を組織して朝鮮人を虐殺した。
たしか四ツ木橋の土手下に近年慰霊碑が建てられた。

しかし、真っ暗になってきて探す余裕もない。

もうひたすら家を目指して無灯火の自転車をこいだ。
ダイナモを離してペダルを軽くしようと思ったが、ひょっとしたら薄く点いているかもしれないし、回していればお巡りさんにつかまったとき言い訳もできる。

八広中央通りを進むにつれて正面のスカイツリーがどんどん大きくなり、だんだん不安になってくる。スカイツリーになんか行きたくない。家から遠ざかっているのではあるまいか。

やがて明治通りに出た。
90度右折して三ノ輪のほうに向かった。
遠回りかもしれないが、道は分かる。スカイツリーからも離れたかった。
結局上の地図を見れば、正三角形の一辺をいくのに二辺を使っていたことになる。

18:15 白髭橋
延々と明治通りを走り、京成線、東武線、国道6号をこえ、向島百花園の脇を通って、ようやく白鬚橋で墨田区を抜ける。膝が痛い。明日日曜は朝から寝ているとしても、夕方練習があるな。

18:27 明治通りと常磐線ガード

明治通りの台東区側をわき目も降らず自転車こぎ、泪橋、三ノ輪の交差点を過ぎる。
目の前にアーチ橋があらわれ、常磐線の電車が明治通りの上を走っていった。

交番の前に来たら急いで降りて押すつもりだったが、幸い呼び止められることもなかった。

荒川区役所の前を通って宮地の6差路から道灌山通にはいる。
18:39 荒川区西日暮里の貨物線踏切
ここまで来ればご近所の範囲

18:46 狐坂。千駄木小学校入り口。

葛飾区から信号待ちとスマホ撮影以外、一度も止まらなかった。
ずっと座りっぱなしで、ひたすら暗闇の中、西に向かって自転車をこぎ続けた。
しかし、ここで初めて降りた。
家までニ、三百メートルだが、疲れ果て、狐坂はもう押して上るしかなかったからだ。

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