2023年5月21日日曜日

谷中墓地14 芋坂、聖公会の墓、菊見せんべい

2023年の黄金週間は、どこにも出かけず庭の野菜を眺めて過ごし、連休中に二人の客人を迎え、久しぶりに谷中墓地を散歩した。

一人目の駒野宏人氏との散歩は書いた。

20230520 谷中墓地13 東大新光社と牧野富太郎、朝倉文夫

二人目の客人は40歳も若い石合崇人君である。
弘前大学医学部の大学院生で、東京・西巣鴨の実家に帰省中、会うことになった。
彼は埼玉の薬科大学に通学しているころ、ニューシャトルの車中で国家試験の参考書の代わりに司馬遼太郎を読んでいた。今どきの学生にしては珍しいので声をかけた。話すうちに実家の菩提寺が千駄木の連光寺とのことで親しくなる。そのうちこのブログの読者となりメールのやりとりが始まり、昨年私が青森に行ったとき、弘前城を案内してくれた。

5月4日、日暮里駅改札口で12:00に待ち合わせ、東口のニュートーキョーに行った。店名と言い、シャンデリアと布張りソファーといい、昭和の喫茶店である。二人ともハンバーグと生姜焼きが乗ったランチを食べた。
(写真を撮ったが載せない)

食後は、芋坂を上がるべく、駅前から南に歩いた。
説明することがいくらでもある。
左に見えるホテル・ラングウッドは吉村昭の実家の工場の跡地だよ。
この歩いている道は明治まで音無川が流れていたから、そこの善性寺の前に石の欄干が残っているよ。
羽二重団子は子規、漱石、鴎外、などいろんな人の文章に出てくるよ。この店は10年くらい前に入ったときは、もっと広くて店内から中庭が見えて趣があったんだけどな。角の石柱を見てごらん、正面に「王子街道」、右側面に「右 いも坂みち」、左側面に「左 根ぎしみち」、と書いてある。
おうじみちというからには音無川が石神井川と別れたところから続いているんだろうな。
根岸の子規庵はすぐそばだけど、このまま芋坂を上がって、谷中墓地に行こう。
芋坂はいまは跨線橋に名前が残るだけだけど、昔はこんなに線路が多くなくて、一本か二本だから踏切とちゃんとした坂道があった。鴎外は馬に乗って千駄木から団子を買いに来たらしい。

一方的にしゃべっていたが、この坂道という言葉に石合君は反応した。
彼は「坂の上の雲」が好きらしい。
「あの坂はどこでしょう?」
秋山真之が戦後、子規庵を訪ねて、その足で田端・大龍寺の子規の墓に向かったときの上り坂のことだな。
東の根岸と西の大龍寺の間には南北に細長い上野・谷中台地・道灌山の尾根がある。どこかで坂を上って下らなくてはならない。たぶん、坂の西麓の六阿弥陀道を通った子規の葬列と同じ道すじだろう。当時の上り坂は南から御隠殿坂、芋坂、紅葉坂、御殿坂、諏訪坂(西日暮里駅)、不動坂(田端駅南口)がある。不動坂は北過ぎて六阿弥陀道を通らない。諏訪坂は坂の向きが北から南へ斜めに上がるから使わない。御隠殿坂、芋坂、紅葉坂は子規庵から近いけど、上がると谷中墓地に入ってしまう。だから秋山が見上げた坂は、たぶん御殿坂ではなかろうか。日暮里駅北口から本行寺の前を通る坂である。

そんな話をしたので、一番南の御隠殿坂から見ていくことにした。
芋坂から墓地に入り、正面にスカイツリー、左に線路を見下ろす崖に沿って南に歩いていくと、新しい墓石が整然と並ぶ区画に出くわした。
新規分譲もなく、あまり変化のなかった谷中霊園にあって、これは珍しい。
2023‐05‐04 13:21
よく見ると同じ形ですべてに十字架がある。
はて。
すぐ横に大きな墓があり、日本聖公会会員之墓という石柱がたっている。
この墓は昔から知っている。
大きくて目立つから、ここを歩くときいつも見ていた。
すると、この一帯は聖公会が広く持っていて、ごく最近、会員に分けたということだろうか? そんなことができるのだろうか? あるいは、各墓地は昔から会ではなく会員が持っていて彼ら個人が一斉に墓石を新しくしたのだろうか?
13:21
日本聖公会は、宗教改革のときイングランドで生まれた英国国教会の日本版。カトリックとプロテスタントの中間とされる。国内に279の教会を持ち、信者は約48,500人、日本のキリスト教徒全体の約5%を占める。立教大学、聖路加国際病院は聖公会の関連団体である。

聖公会から目を反対の西側に転ずれば、寛永寺が田安家墓所を整理して大々的な霊園を分譲し始めたし、谷中墓地もここへきて変わり始めている。

御隠殿坂をみて、渋沢栄一の墓所に来た。
ずっと工事していた渋沢家の墓の西半分には、小さな公園が完成していた。
そのあと平櫛田中旧宅の裏を通って、一橋家の前を過ぎ、高松松平家の墓所に行くと、すっかり移転した後の空き地になっている。谷中墓地もどんどん変わっていく。

石合君は谷中墓地が初めてというので、定番の徳川慶喜の墓地をみて、息子たちの徳川誠、厚、勝精、をちらりと見て、塀に囲まれた津山松平家墓所を過ぎ、渋沢栄一墓所に戻ってきた。
13:46
渋沢家墓所が縮小するとき、中央にあったタブノキが公園側に移動した。
その時の様子がパネルになっていた。

通り道に福山藩阿部家の墓所があったので覗く。
阿部家で一番有名なのは激動の幕末に老中首座を務めた阿部正弘であろう。
以前来たときは、じっくり見ず、正弘の正室、継室の墓だけ見て帰った。
(要するに墓石に戒名があっても分からないが、阿部伊勢守正弘室と目立つところに彫ってあった)。今回は正弘の墓を探す。
13:48
大きな墓石に目をつけ裏を見たら、
備後福山城主
侍従伊勢守
従四位下阿部
朝臣正弘墓
と彫ってあった。

13:50
こちらは、
故備後福山城主従五位下伊予守阿部朝臣正寧墓
とある。正弘の兄。6代藩主であったが病弱だったため、正弘に藩主(7代)の座を譲った。

このあと、青山胤道の前から田安家、清水家墓所、伊予の伊達宗城の墓を見て、交番前に出た。石合君は「胡蝶の夢」を読んでいるので、ちょうど交番のそばにある陸軍軍医総監・石黒忠悳や佐藤尚中の墓を教えた。そのあと数日前に駒野と見た、東大千人塚、牧野富太郎をみて、順天堂大学創始者佐藤泰然、松本家の墓を見て、墓地の外に出た。

ちょうど御殿坂中腹に降りたので、石合君は「坂の上の雲」を思いながら写真を撮った。
坂の上の右側、本行寺は幕末の外国奉行・永井尚志の墓があるが、立ち寄る時間もないので素通り。
経王寺も門の木戸の、上野戦争の弾痕を見ただけで素通り。
連休で混む谷中銀座をすり抜け、よみせ通りに出た。
ここは漱石の「三四郎」、鴎外の「青年」などに出てくる愛染川(谷田川)の暗渠道だよ。

暗渠道が三崎坂下すなわち団子坂下にくると菊見せんべい。
14:34
ここも明治時代から有名だと、菊人形の話をした。
すると彼は実家へのお土産としてせんべいを買った。
私は買ったことがない。

このあと千駄木菜園に来て一緒にイチゴを収穫して食べ、おしゃべりしながらお茶を飲んだ。終活で何度も捨てている蔵書を持って行っていいよというと遠慮しながら仏教関連と三浦綾子など何冊か選んだ。

4時をすぎて菩提寺の連光寺に寄って都営地下鉄白山から帰るというので、トウの立ったサニーレタスを無理やり3つ持っていってもらった。

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