2021年9月21日火曜日

大根苗はネキリムシか? サツマイモ、オクラも虫


2021-08-21
トウモロコシ、枝豆を片付けて大根をまいた。
ネットは虫よけというより、スズメが土遊びをして種を蹴散らすのを防ぐため。

我が家における大根の難しさは、発芽直後に何者かに食われること。
朝、よく茎が地面に近い部分からぽきりと切られている。
サツマイモやニンジン、ピーマン、長ネギなど、もう少し太いものが切られているとき、根元を掘るとネキリムシが地中に潜んでいる。

2021‐09‐06
しかし、大根の場合、掘っても犯人は出てこない。
ひょっとして夜間地面をはい回り、朝どこかに逃げてしまうのだろうか?
と思ってペットボトルの筒で囲んでみた。
しかしやはり、食われた。

2021‐09‐15
一か所に2粒ずつまき、食われたら種まきを追加して、なんとかここまで育った。
この日は一本立ちにした。間引いたものは生で食べた。

大根はそのうち葉っぱに虫がつくだろうが、比較的よく育つ。

2021‐09‐18
オクラは2株だけ育ち、9月20日までに、30本収穫した。
よく見ると葉っぱが丸まっている。
今までオクラは何回か作ったが、今年初めて見る現象。

広げると糞と一緒に青い虫が出てくる。
ワタノメイガの幼虫、ハマキムシである。
2021‐09‐18
広げて割りばしで捕まえようと思ったが面倒。
丸まった葉っぱのままつぶすことにした。
これなら見えないし、直接触らないから抵抗が少ない。

2021‐09‐19
サツマイモのほうも葉っぱが穴あきになっていて細い虫がいた。
尺取り虫のようだ。
ナカジロシタバらしい。

サツマイモには大きな芋虫もいる。
エビガラスズメの幼虫である。夜行性。
これは大きいからつぶすのは躊躇し、先週捕まえて容器に入れて置いたら逃亡した。

2021‐09‐20
つる返しをしたら芋虫が地面に転がっていた。丸まっているから、日中地表にいるというより、茎につかまっていたのが落ちたのだろう。
これも容器に入れたら、5分くらい目を離したすきに逃亡した。

24時間地中にいるコガネムシ幼虫などは、容器の壁を這いあがれないし、日なたに置けばすぐ死ぬ。しかし芋虫や毛虫など葉っぱや茎を上がるものは、外に放置しても何日も死なず、蓋がずれれば這いあがってしまう。

野菜つくりも虫害や病気がなければもっと楽しいのだが・・・

昨年息子に白菜を持たせたら青虫がいたらしく、お嫁さんがパニックになったらしい。
もう少し強い女性を選んで欲しかった。

私だって虫は苦手だ。スーパーのきれいな野菜のほうが好きだ。
消毒はたまにやるが効かないし面倒だから、ついさぼる。
効かないのは5年から10年経っている消毒液が古いせいかもしれない。


別ブログ

2021年9月20日月曜日

パプリカの栽培とシシトウの記憶

2021‐09‐18
パプリカが初めて取れた。

思えば長かった。 
2018年スーパーで買って食べ、生ごみとして出た種をまいた。
  発芽するも、成長遅く夏に抜根。
2019年、保管していた種をまき、発芽するも育たず花も咲かず。
2020年、前年のパプリカを挿し木で越冬させ育てるも、ハダニにやられる。
       ナスのついでにまいた種はこの年も育たず。

そして2021年、冷蔵庫にはまだ2018年の種が残っていた。
懲りずに3月30日、29粒まき14発芽。

2021‐06‐02
手前はナス、奥がシシトウとパプリカ。
実生の苗は2か月たっても大きくならない。
パプリカ14本のうち、9本を地植えする。
今年は初めて化学肥料を少し与えた。

しかし花も咲かず実もならず。
例年通り、抜くことになりそうだったが、
そのうち一株だけ実がなる。
同じ大きさのもの3つ。
2021‐09‐06
なかなか色がつかない。

初めてパプリカを食べたのはいつだろう?
そもそもパプリカなんて昔はなかった。
1993年、アメリカ、シンシナチに行ったとき、スーパーKrogerには見たことのない果物や野菜があった。
先にいらしていた京都大の森泰生夫妻が「こちらのピーマンはすごくうまい」
と言っていたから、パプリカという単語はなかった。
旅行で来た長野の両親にクローガーで「こっちのピーマンを作ってみて」と種を買ってお土産にした。
その後、父からこのピーマンの話は出なかった。
空港で没収されたのか、種まきを忘れたのか、育たなかったのか、分からない。

2021‐09‐18
今調べたらパプリカはハンガリーで生まれたらしい。
ビタミンC(アスコルビン酸)は柑橘類に多いが他の糖や有機酸も多くて精製できず、ハンガリーのセント=ジェルジがパプリカから精製単離(1937年にノーベル賞を受賞)したことを思い出す。
1990年代に初めて輸入され、日本で栽培されたのは2006年の熊本県が最初で、2010年には他県にも広がったというが、私にとって2000年代なんてつい最近のことだ。いまやスーパーでもよく見るようになった。

次女が2008年ころ高校で演奏バンドを作り、その名前がパプリカだったな。

2021‐09‐20
9月になって雨と低温が続いて、そろそろナス、ピーマン類も終わりか、と思ったら、ずっと沈黙していた8本のパプリカが花をつけ、実も生り始めた。
困った。
この場所は白菜を植える場所だから、そろそろすべて抜いて耕さねばならない。

2021‐09‐20
あと2つ残っている。

パプリカはナス科のCapsicum(トウガラシ)属。
そして、ピーマンやトウガラシも同じ属、同じ種である。
つまり、すべて栽培品種で、生物学的にはCapsicum annuumの1種類である。

今年は例年挑戦するパプリカのほかにシシトウを初めて作ってみた。
(その結果、場所の都合からピーマンをやめた)。
ダイソーで買ってきた2袋110円のシシトウの種を一袋全部、12粒をまいた。
10粒発芽。6本を定植した。

7月18日に初めて2個とれた。2日にいっぺん収穫し、8月25日には最高18個とった。
9月20日までに、221個収穫した。(6本の合計)
ほんとにこんなに生ったのかな?こんなに食べたのかな?と疑うほど多い。

2021‐09‐20
シシトウの木はナスと違ってまだ元気で、さらに生りそう。
しかし、ここも長ネギと大根3次の場所だから9月いっぱいできれいにしたい
・・・・困った。

中学生の頃だろうか。
「シシトウはコショウ(長野ではピーマンのこと)と唐辛子を交配したものだ」と祖父が言っていたが、今思えば唐辛子から辛くないものを選抜した気がする。

信州の夏、炎天下でのシシトウ収穫。
汗が目に沁みるし、中腰で腰は痛くなるし、畝はくらくらするほど長いし。
(あれを経験すれば昨今の熱中症報道、神経質なまでの対策など大げさで過保護に思える。)
夜は毎晩テレビを見ながら小分けパック詰め。
父親が重さをはかり、我々が透明のプラスチック容器にきれいに並べて入れる。
子どもにはけっこう並べるのが難しくて、どうせ食べるときはバラバラにするのに、なんでこんな面倒なことをするのか? 並べなければ重さをはかる一人で済むのだ。
妹、弟は黙ってやっていたが、私は大いに不満で、父親に聞いた覚えがある。

そういえば昔のシシトウはもっと辛かった気がする。
(さらに品種改良されたのだろうか?)
今でもたまに辛いのがある。
辛いのが株によるのか、同じ株の中に一定の割合で生じるのか、どちらだろう?
初めて食べて50年以上たった今、ちゃんと調べてみたいが、やはり収穫するとき全部一緒にしてしまうから、なかなか判明しない。
1株ずつ分けて収穫しても料理、盛り付けを別にするのは面倒で、きちんとやっても間違いそう。

2021‐09‐20

9月20日の夕食は、シシトウとパプリカを入れた酢豚だった。
4年越しにやっととれた1つのパプリカは、どんなに甘いか楽しみだったのに、ケチャップと酢の味に負けて、旨いも不味いも分からなかった。
「うちの酢豚はトマトケチャップも入ってるの? 酢だけじゃないの?」などと聞いただけなのに妻が不機嫌になった。




2021年9月19日日曜日

玉の井、鳩の街、かつての赤線地帯をたずねる

東武鉄道の東向島は、駅名表示板に「旧 玉ノ井」と書いてある。
2021‐09‐08

東武伊勢崎線はスカイツリーラインとハイカラな名前に変えたが、浅草、業平橋(2012年スカイツリー駅に改名)、曳舟、玉ノ井、鐘ヶ淵、堀切、牛田、北千住、小菅、と戦前、昭和の匂いがする駅名ばかり。あざみ野だの青葉台だの自由が丘だの、山野を切り開いた西方の私鉄と違い、歴史、文化が澱のように溜まっている。

とくに東向島、玉ノ井といえば、永井荷風の墨東奇譚(1937)。
昔読み始めたのだが、古い文庫本は活字が小さいこともあり、途中でやめた記憶がある。

1958年の売春防止法施行により、私娼街は衰退、消滅したが、今どうなっているか一度来てみたかった。

9月11日、千駄木からママチャリでひたすら東に向かう。
荒川区から水神大橋をわたり墨田区に入る。
白鬚東アパートの巨大団地を見た後、すぐ前の墨堤通りの八百七の角から小道をはいる。大正通りというようだ。

1928年京成白鬚線が八百七のそばまできていたが、1936年廃業。墨東奇譚にも出てくる。終点の京成白鬚駅跡地は白鬚橋病院となった。しかし2017年曳舟駅に直結するビルに移転し、東京曳舟病院に改名、八百七近くの敷地は特別養護老人ホームとなった。
2021‐09‐11 16:08
東武線のガードをくぐると、大正通りはいろは通りと名を変える。

16:10
いろは通りの向島警察署 墨田三丁目交番

荷風が通ったころ、私娼街は玉ノ井駅の東、いろは通りと南の改正道路(水戸街道、国道6号)の間にあった。
しかし戦災で焼かれた後、私娼街は焼け残ったいろは通りの北と、曳舟駅の西の「鳩の街」の2か所に分かれて移った。

何か面影が残っていないかと、交番のところから北東の区画に入ってみる。

自転車で静かに走る。

16:12
この建物の角のアールなんか面白い。

道が狭く、古い木造家屋が密集。
「不燃化促進用地」のとなりは廃屋のような中に自転車が並んでいた。

16:15
道がくねくね曲がっていてどこを走っているか分からなくなる。

新しい家が多く、数年前に来ればよかった。
もっと昭和の私娼街の名残を見つけられたかもしれない。

16:19
荷風は東京市外、旧郡部の陋巷として玉ノ井を小説の舞台に選んだ。
彼の分身と思われる主人公が初めて娼婦の家に入った時は雨で、
外でどぶがあふれ「あらあら大変だ、きいちゃん、ドジョウが泳いでいるよ」と声がした。
荷風の頃はいろは通りの南側だが、こんな路地の奥だったのではないか。

玉の井の銘酒屋(後述)は、間口の狭い木造2階の長屋で、店には女性が1 - 2人ほどいた。1階には狭い通りに面して小窓があり、ここから女が客を呼んだ。接客する部屋は2階。

区画整理のできていない水田を埋め立てたため、あぜ道の名残の細い路地が何本も入り組み、雨が降ると相当ぬかるんだ。路地の入り口には、あちこちに「ぬけられます」あるいは「近道」などと書いた看板が立っていた。

外に蛇口、石垣があることから昔はどぶ川が流れていたのではあるまいか?
16:20
暗渠?をたどれば、ごみ屋敷と向こうには赤錆の家

いろは通りを南にわたると、戦前、荷風のころ私娼街だった場所だが、戦災で焼かれ、今は何も残っていないはず。ぶらぶらしてみる。
16:23
とにかく道が細くて複雑。
自然と曲がっているから同じところに戻ってきたりする。

16:26
魚八栄五郎商店は二階で宴会と看板にあるが、総菜、弁当屋さんだった。

いつのまにか東武玉ノ井、いや東向島駅の前に出た。
これ以上うろうろしても私娼街の名残は見つけられそうもないので、戦後うつったもう一つの場所、鳩の街に行ってみる。

*****

歴史的、世界的にみて売春は社会に必要なものとして時の政府に公認されてきた。
例えば日本では江戸時代のはじめ元和3年(1617年)、幕府が日本橋葺屋(ふきや)町に遊郭の設置を許可した。海岸近くで葭が茂っていたことから、吉原と命名した。吉原は1657年(明暦3年)に、浅草日本堤下、今の場所に移転した。(明暦大火は関係ない)

そして「傾城町の外傾城屋商売致すべからず、」
すなわち表向きは吉原以外に娼妓をおくことを禁じた。

しかし需要は多く、江戸周辺部の寺社門前地の茶屋から発展した色町があちこちにできた。根津などは郭に囲まれていないが遊郭といってよい。

また、品川・内藤新宿・板橋・千住(江戸四宿)などの宿場には、準公認の飯盛女が置かれた。これらを岡場所と言い、娼婦は吉原の公娼に対して私娼といった。岡は「ほか、外」という意味か。

さらに幕末から明治、大正にかけて、銘酒を売るという看板をあげ、飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した銘酒屋(めいしゅや)という店も各地にあった。本郷丸山、樋口一葉の最後の家のあたりにもあった。

浅草周辺にも銘酒屋があつまっていた。
荷風の墨東奇譚に寄れば、1918年ころ、浅草観音堂裏に言問通りが開かれるとき、その近辺にあった銘酒屋などがこの新開地へ移ってきたのが始まりらしい。その後、関東大震災後の復興に際して、浅草では銘酒屋の再建が許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井に多く移ってきた。

所轄の寺島警察署の統計によれば、1933年には、銘酒屋497軒、女性は1,000人いたというが、実際にはこれよりもずっと多かったという説もある。

そのころ浅草から一直線に水戸街道(現、国道6号)が開通、1931年には東武鉄道が開業、玉ノ井駅までのアクセスが格段に良くなった。荷風以外にも、徳田秋声、檀一雄、太宰治、高村光太郎、武田麟太郎、サトウハチロー、川崎長太郎など、多くの文士が訪れた。尾崎士郎、高見順は作品に登場させた。

1945年3月10日の東京大空襲で街のほとんどが焼失、戦後は焼け残ったいろは通りの北と、1キロほど南西の鳩の街に移って営業したが、GHQの指導で廃止されることになった。しかし売春防止法が施工される昭和33年までは黙認される。黙認された区域は地図上に赤線で囲まれたことから「赤線」と呼ばれた。

・・・・
さて、玉ノ井(東向島駅)から国道6号に出て、南西に走る。
16:37
「鳩の街」入り口のアーケード
曳舟駅の北東、ローソンの角にハトの絵が入ったアーケードがある。飾りが右半分しかなく、左右の支柱の太さも違う。そういうデザインなのか、壊れて直してないのか不明。
鳩の街通りは店一軒分あけた二本の通りが並行している。
川の両側に道ができ暗渠にしたあと、あいだに家が建ったみたい。
16:38
だから西側の道の片側は家の裏側になっている。

1952年(昭和27年)当時は、娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。

16:41
今も水の出る井戸と観光人力車

鳩の街通り商店街は、昭和3年に設立された寺島商栄会としてスタートした。
戦後、玉ノ井から移ってきた銘酒屋が近くに歓楽街を形成、遊びに来た進駐軍がpigeon streetといい、そのまま鳩の街と訳した。

寺島商栄会は、都電の終着駅のすぐ近くで、歓楽街・鳩の街もあったことで賑わった。昭和30~40年代には、水戸街道から墨堤通りまで約300mの両側にびっしり商店が並んだという。そして私娼街が廃業した昭和30年代、より有名な名前をもらい「鳩の街商栄会」と改名した。

しかし今や最寄りの曳舟駅からも離れ立地が悪い。
シャッター通りという時期も過ぎ、いまや一般住宅が目立つ。
すなわち私娼街どころか商店街も消えつつある。

・・・
ちなみに「玉の井」はもともと東京府南葛飾郡寺島町にあった字で、1930年(昭和5年)、寺島町はこれまでの字を廃して新たに寺島町一 ~ 八丁目の大字を設置した。東武の玉ノ井駅は1924年に開業、1987年に東向島に改称した。

2021年9月16日木曜日

墨田区民を守る万里の長城、白鬚東アパート



google2021

南千住駅の東、汐入公園にきて隅田川の堤防に出た。(別ブログ)

2021‐09‐08
水神橋の向こう、対岸の墨田区側に、万里の長城のようにマンションがつながっている。

何棟あるのだろう? 延々と下流の白鬚橋のほうまで続いている。
よく見ると屋上に橙色のタンクのようなものが載っている。

白鬚橋(明治通り)から墨田区側に渡る。

橋の東詰め、明治通りと墨堤通りの角にデニーズ。
人工池に囲まれてなんとおしゃれなファミレス!
このガーデンプラザにはバーミアンなども入っていて、これらがやっていけるには周辺人口が十分でなくてはいけない。

デニーズの斜め向かいは貸布団・間中ふとん店。
ガラス戸が割れそうなほど、布団が乱雑に積んである。
一等地が昔のままというのが、向島らしい。
しらひげ書房は廃業した感じ。

2021‐09‐08
この交差点、すなわち明治通りのデニーズの向かいから、巨大アパートが始まる。
東京都都市整備局の設置した建物配置図の看板を見ると、一帯は白鬚東アパートというようだが、建物には「東白鬚第一マンション」と書いてあった。はて?

1号棟の「1」の横、5階に放水銃がみえる。
近くに火が迫った時に放水するのだろうが、ちょっと想像しにくい。

各棟は、墨堤通りと隅田川の間を細長く北へ伸びている。
どこもそうだが、たいてい団地の商店街は元気がなく廃れている。


商店街は二列だった。
どこか近くに大きなスーパーでもあるのかな。

普通に解放されているのでエレベーターで最上階、13階にあがってみた。

エレベーターホールはきれいに掃除されていて、自治会もしっかりしているようだ。
建物は川(西)側に廊下があり、玄関が並ぶ。
白鬚橋方面

2021‐09‐08
水神橋方面。荒川区汐入公園のポンプ場が見えた。

荒川区側から見えた屋上の橙色のタンク?を見たかったのだが、屋上への階段は封鎖されていた。
2021‐09‐08
下に降りて公園側から見上げると5階に放水銃が3基あった。

墨田区は土地が低いうえに大河2本に囲まれ水害が心配されるが、これは火事を意識した建物になっている。それなら放水銃は東に向けるべきだと思うのだが。

帰宅後、調べた。
ウィキペディアによれば、正式名称は白鬚東アパート。

都営団地部分1607戸、住宅供給公社分譲部分256戸。計画人口は約6500人。
1号棟 住宅供給公社分譲。東白鬚第一マンションとも。鹿島建設施工。102戸、13階建て。
2号棟~9号棟 都営白鬚東アパート。
10号棟 東白鬚第二マンション10号棟とも。大成建設施工。13階建て。
11号棟 東白鬚第二マンション11号棟とも。大成建設施工。13階建て。
12号棟 駐車場
13号棟・14号棟 防災備蓄庫
15号棟~18号棟 ツインコリンダー型の4棟。

1号棟、第一マンションは1982年築。64平米、2500万から2800万円。43平米の物件は1800万だった。
(IESHIL)
第2マンションも1982年築、ほぼ同じ価格。賃貸しだと12万円。東武の鐘ヶ淵駅から歩いて5分である。

東京都は1969年、東部地域の防災6拠点構想を策定し、その一つとして「白鬚東地区防災拠点」を1975年(昭和50年)に着工、高さ40mの高層団地を1.2㎞に渡って配置、1982年(昭和57年)3月に完成した。約27.6ヘクタール。

墨田区は関東大震災で被服廠の空き地に避難した4万人が、火に囲まれて焼け死んだ歴史がある。
おなじ防災6拠点構想で完成した白鬚西地区(荒川区汐入のマンション群、別ブログ)が主に水害を意識したのに対し、こちらは墨田区北部が大火に見舞われたとき、住民を川側に避難させ、18棟が防火壁となる。

・・・・・
9月11日、自転車で向島、曳舟を探検するため団地を再訪した。
前回は白鬚橋から墨田区に入ったので水神大橋をわたる。

2021‐09‐11 15:56 梅若門
1と2,3と4など棟が雁行して重なっているところは南北方向に隙間ができる。
そこには災害時に閉鎖する防災ゲートが設けられており、北から鐘淵門、梅若門、水神門、寺島門、白鬚橋門という。

また、2と3、4と5など、棟と棟が横に並んでいるところは東西方向に隙間ができる。ここも災害時に閉鎖されるようだが、こちらは名前がない。

屋上にはオレンジ色の物体はやはり巨大な水タンクだった。火災時にシャッターに散水するらしい。
避難場所となる東白鬚公園は周辺からの約8万人を収容するように設計され、延焼しにくい常緑広葉樹が植えられている。

15:59 水神門
字体といい、名前といい、古代中国城塞都市の門のようだ。

ちなみにこの地は、1962年(昭和37年)に操業停止した鐘紡東京工場があった。
カネボウ化粧品だけ残し消滅したカネボウ(のちクラシエ)は、鐘ヶ淵紡績として出発したから、ここが発祥の地であったのかもしれない。本来隅田川と綾瀬川の合流地点を差した鐘ヶ淵は、東武の駅名(9号棟から徒歩5分)として残るが、住居表示としてはない。

ここに東のほうから住民が皆避難してきて防火シャッターを下ろして放水する事態なんてあるだろうか? 計画策定が戦後の空襲から17年後の1962年とはいえ、大げさな気もする。公共事業というのは防災というとなんでも通る。
でも、どうせ住宅供給が必要だったのだから、こういう形もありか。