2021年7月18日日曜日

梅雨野菜、種芋を食べ、シソの鉢

 7月3日、熱海で土石流発生。

我が家の畑は雨に濡れている。

昨年収穫したサツマイモを埋めて出てきた芽を新たに植えていたが、植える場所もなくなったので抜いて処分した。

2021‐07‐05
この芋は食べられるだろうか?
ふかして口にしたら筋っぽかった。時期が遅れた大根のようだ。
もっとも秋冬にはこんなに小さいものは食べなかったから比較はできないのだが。

キウリは雌花がほとんど枯れてしまい、なかなか取れない。
それでも1本でも取れれば、食卓で楽しめる。

2021‐07‐08
いっぽうナスはキウリと違って一度に3つ4つ必要。
もっと生ってほしい。
しかし春先、ナスは種から育てていたので、苗は2本しか買わなかった。
その2本では7月17日の段階でまだ6個とれただけ。

実生ナスのほうはまだ小さい。
木を大きくするため一番花を摘み、次の花が咲き始めたところ。

2021‐07‐08
枝豆は豆をまいても腐るものが多く、発芽率が悪かった。
育ったものも肥料をやらなかったせいか背丈が小さい。

2021‐07‐12
枝豆、葉が黄色くなって成熟十分とみて4本とって食べた。

枝豆の根粒はエンドウのものと全く違う。

2021‐07‐08
今年キャベツは20株植えた。
小玉品種なので豚肉はさみ煮なら1回で一つ、回鍋肉なら7割使うから、どんどん食べた。
残りは2株。もともと育ちの悪い苗だったから、なかなか玉にならない。
ようやく玉ができても大きくならず、放っておくと虫も来るし場所も取るので7月15日、最後の1つを見切り収穫した。

2021‐07‐15
サツマイモのつるは広がるので、昨年狭い庭ではカオス状態になった。
狭いなら立体的に育てればいいと思い、ネットに這わせようとしたが、ちっとも登ってくれない。
立て掛け式ネットは4000円以上するから2つ買わなくて良かった。

午後突然の豪雨という天気が何日か続いた後、7月16日、関東が梅雨明けした。

御徒町に住む末娘が食事をご馳走してくれるという。
梅雨のころから妻とのラインで、シソの鉢が欲しいと言っていた。
シソは非常に強くて、梅雨の時など雑草として抜いてもなかなか枯れない。
毎年種はあちこち飛び散り、日陰でも育つから、我が家はフキとシソだらけ。

しかし娘にあげる鉢というと難しい。
キッチンにおいてちょうどいい大きさで、かつ虫食いでないもの。
トウモロコシの間に生えてきた青ジソを抜き、最高の2鉢を作った。
ちゃんと水も上げて4日育てた。
2021‐07‐17
生ごみから出てきたミニトマトを鉢にしたら実がなっている。
彼らのベランダに置いてもよい。
しかし「重いから駄目よ」と妻が言うので渡すのはやめた。

7月17日、夕方になって娘夫婦が来た。
結婚式を挙げた2月以来の顔を見る。
彼女は建築士試験を受けるため製図道具を取りに来たという。
昔いた部屋で探している間、婿殿を庭に誘って、いくつか野菜を取った。
2021‐07‐17 17:30
シソの2鉢のほか、ミニトマト、キウリ、ミョウガ、シシトウ、枝豆を持たせた。

妻は乾麺のほかフキを煮て持たせた。
確かにフキは下ごしらえが大変で共働きでは料理できない。
いつまでも母と娘だ。

歩いて出かけた店は根津のmomo。
テーブル4つの小さな店。ワインで静かに乾杯した。
政府はアルコール自粛を求めるが、私はレストラン側を支持する。
普通に考えれば、感染と関係ないことが明らか。

食事後、妻も娘たちも歩いて帰るという。
店の前で南と北に分かれたほうがお互い近道なのだが、懐かしい赤札堂の前まできて、不忍通り吉野家跡の空き地でようやく別れた。

しばらく後ろ姿を見ていたが、若い二人は振り向かず歩いていった。
さっさとタクシーで帰るような男でなくて良かった。



2021年7月16日金曜日

荒玉水道道路、地平線は何キロ先まで見えるか?


地図を見ていて気になっていたものの、行ったことがない場所のひとつ。
世田谷区の荒玉水道道路。
直線が約10キロメートルも続くという。
ここに立ったらずっと先まで見えるのかな?

都道428号
左下から右上まで一直線

しかし地球は丸い。
日露戦争の日本海海戦では高いマストに上っても、遠くの船はなかなか見えず、先に煙が見えてから敵艦が現れた。6400メートルくらいになるまで砲撃しなかったのは、見えなかったからではないが。

hメートルの高さからどのくらい遠くまで見えるか?
地球に接線をひき、それが地表からhメートル浮き上がる距離 L はいくらかという問題になる。
地球の半径をRメートルとすれば
  R^2  + L^2 = (R+h)^2 
  すなわち、L^2= 2hR+h^2    L ≒ √(2hR)
眼の高さ h=1.5メートル、R=6,371,000メートルを入れれば
   L=4371メートル 
つまり5キロ先の地面は見えないということだ。
しかし目標物の高さも1.5メートルなら、この倍、8.6キロ先の物が地平線上に頭を出す。

6月30日、この道路の近くの恵泉女学園に用事があった。
2021‐06‐30 12:22 恵泉女学園
あたかも修道院のように校舎が中庭を四角に囲んでいた。
講堂、図書館が素敵でキリスト教精神に基づく品のいい学校だった。
卒業生では北川祥賢氏の奥さんしか知らない。

この日は、ここに来る前に遠回りして昼食も取らずに松陰神社、世田谷城址、豪徳寺を早足で回ったから、仕事が終わるとすっかり疲れてしまった。これからワクチン接種に行かねばならない。
しかしせっかくなので経堂駅と反対側に足をむけ、急いで「まっすぐ道路」に行った。

イトーヨーカ堂の先の交差点で立つ。
確かに道はまっすぐ。
しかし「地平」を見ることはとても難しいことが分かった。

14:31 南を見る
左は世田谷区船橋5‐35‐7 
まず直線道路の信号が赤のとき、私が左折車、右折車に注意しながら交差点の真ん中に出なくてはならない。しかしたいてい車が信号待ちで止まっていて向こうが隠れてしまう。
何度か挑戦してようやく車のいない瞬間に立てたが、どこまで見えるかと言われても、目印がないからよくわからない。
少し起伏もあるようだ。
北を見る

視力1.0なら視角1分(1度の1/60)が判別できる。
お玉を目に当てみたものは、5メートル先のC。
半径5メートル(5000mm)の円周をかき、1分に対応する弧の長さは
5000 *2 * 3.14 / 360*60 = 1.45mm
つまり、5メートル先の1.45mmが判別できる。

外へ出れば5キロメートル先の人間(1.45メートル)が見えるはずだが、急いで立つ交差点の真ん中では動体視力なのだ。目を凝らす時間もない。
とりあえず写真を2枚撮った。

帰宅後グーグル立体航空写真を見た。

環八通りと千歳通の交点から北を見る。右に恵泉女学園が見える。
日大理工学部の向こうに黒い線が横たわっている。

黒い線は京王線(桜上水駅付近)と中央自動車道(高井戸ICの東なので首都高4号新宿線)であった。正面はるかに見えるは筑波山。ちょっと意外な方向にあった。

ここで分かったのは、完全な一直線ではないこと。
良く晴れた湿度の低い日でも5キロ先は物理的に難しいことがわかった。

この道路は都道428号、高円寺砧浄水場線という。
地下に荒玉水道の水道管が埋めてある水道道路である。水道管を保護するため4トン以上の車は通行を禁じられ、ところどころにある車幅ゲートで制限されている。

荒玉水道というのは、1923年の関東大震災のあと急速に都市化が進んだ、北多摩郡、北豊島郡にある13の町村が組合を作り、多摩川(玉川)と荒川を結ぼうとした上水道のこと。
しかし荒川はつながっていない。多摩川の伏流水を井戸で汲み上げて水源とする砧浄水所から中野の野方給水所をへて、板橋の大谷口給水所までを管径1.1mの鉄管で結び、総延長約17km、 1931年9月竣工の1期工事で終わっている。

直線部分は世田谷区喜多見から杉並区高円寺まで約9km。
車両の通行ができるようになったのは1962年からという。

この道を歩く元気も時間もなかった。
駅に戻る道は遠かった。
2021‐06‐30 14:46 経堂駅北口
16時から大手町でワクチン接種を受ける。
急いで何か食べないと。

経堂駅は小田急の他の駅と同様、1998年から2002年にかけて複々線、高架化の工事に伴い大きく姿を変えた。
学生時代、テストの採点で赤堤にアルバイトで来たことがある。たった一度だけだから高架工事で変わってなくても当時の景色は思い出せなかっただろう。でも駅でスパゲティナポリタンを食べたような記憶はある。



2021年7月13日火曜日

国士舘と世田谷城址、区役所付近の地形

  6月30日、恵泉女学園に用事があったので、早く家を出て周辺を歩くことにした。

地図を見たら恵泉の最寄駅、小田急線経堂駅の一つ前に豪徳寺がある。
その少し東に松陰神社があったので、さらに一つ前の梅ケ丘で降りた。

2021‐06‐30 10:41
改札を出ると学生がいっぱい歩いていく。
松陰神社の横に国士舘大学があったことを思い出し、彼らの後をついていくことにした。

世田谷区梅ケ丘はきれいな家が多い。
住宅地として優れているが、都心は遠いし(新宿、渋谷に出ないとどこにもいけない)、江戸明治の史跡がないから、文京区のほうがいいかな、などと思いながら歩いていく。
もっとも世田谷を選ばなかったのは千駄木と比べ土地勘のなかったことが大きい。

10:49
駅の南に広がる住宅地の緩い坂を上がり緩い坂を下りると、正面に国士舘大学世田谷キャンパスが現れる。

国士舘というと、憂国の士という名前からして右翼っぽい。
1917年に柴田徳次郎が立ち上げた私塾国士舘が起源。かれは吉田松陰や佐倉惣五郎らを崇拝した保守思想家。
幕末の尊王攘夷派が維新後に現実的な政治家になったように、戦後、うまくやればよかったのだが、1970年代でも右翼的な色は濃く、一部の学生による暴力沙汰がニュースになった。
1983年、学内の管理運営をめぐり柴田梵天総長兼理事長(柴田徳次郎の妾腹の長男)の一派が安高武常務理事(柴田徳次郎の三女の夫)と争い、梵天派の大学OBにより安高が大学内の理事室で刺殺されたという歴史にはびっくり。

しかし前を歩いている学生は、当たり前だが、ごく普通の大学生。
昔勝手に抱いていた学ランが似合うようなイメージは全くない。
スポーツが盛んで、柔道の斎藤仁、鈴木桂治なども出身者。
2020年大学別就職者数(大学通信オンライン調べ)で、消防士は帝京を抑え1位、警察官も日大を抑え1位。やはり屈強なイメージだが、思想ではなく、一般国民のほうを向いているのはよい。
10:51
世田谷キャンパスは、目の前の梅が丘校舎と崖の上の世田谷校舎群からなる。
ほかに多摩永山(体育学部体育学科)、町田鶴川(体育学部こどもスポーツ教育学科、21世紀アジア学部)にもキャンパスがあるが、いずれも駅からバス。
世田谷には政経学部、理工学部、法学部、文学部、経営学部がある。
国士舘の中心であり、大学本部もここ。

ふと、高校の同級生、若くして亡くなった玉木一徳が文学部の教授だったことを思い出した。2004年、信州中野の市長選は新人同士の激戦で、歯科医師青木一氏に僅差で敗れた。玉木の家は我が家の田んぼの向こう、西間という部落で、父親は私の父と友人(知り合い?)だった。青木氏の父は祖父の知り合いで私が通った歯科医であった。全員、記憶の世界だけの人々になった。
10:55
国士舘中学、高校も同じ敷地にある。
公道を挟んだ校地を陸橋でむすぶのに幅広く道路を覆ったからトンネルの上がキャンパスのようになった。地域住民も学生もともに使えて良い。

10:58
国士舘メイプルセンチュリーホールの脇を歩いていくと正面に世田谷区役所が見えた。
今どき珍しいほど古くて質素。

世田谷区はJRこそないが、京王線、小田急線、田園都市線、東横線が都心に向かい、さらに井の頭線、世田谷線、大井町線がそれらを結ぶ。
中心がどこだか分からず、区役所がここにあると初めて知った。豊島区(池袋)、北区(王子)、台東区(上野)のように、区役所の位置に納得感がない。

10:59
国士舘の体育・武道棟の東は区立若林公園。
このあと公園に隣接する松陰神社に行った。
11:02 松陰神社
ここは見所が多かったのでブログを別にした。

松陰神社から再び国士舘と区役所の交差点に戻る。
11:24
区役所はこの建物だけではなく奥にも広がっている。
前川国男設計という。
質素でいい感じと思ったら、もうじき建て替えるらしい。
まあ、人口94万、23区中最大を誇る(発足当初は人口最少の田舎だった)から立派なものを建てたいのかもしれない。ちなみに面積も1位だったが盛んに海を埋めたてている大田区に抜かれて2位になった。

区役所向かいは国士舘。ここらが正面玄関っぽい。

西へ坂を下りていく途中に寺あり。
11:26 勝国寺
世田谷城の北東に位置し、鬼門除けのために薬師如来を安置して祀ったのが起りとされる。城主吉良家の祈願寺となったが、西(写真左)と北(国士舘大、梅が丘校舎)が崖になっていて、出城の意味もあっただろう。

ここで地形を見ておく。
国土地理院HPから
中央付近の二重丸が区役所。
上の黒い線が小田急線、左上から「し」の字が世田谷線。その交点が豪徳寺駅。
「豪徳寺駅」という文字の上が梅が丘駅
2本の点線は上が北沢川、下が烏山川の暗渠、2つが合流して目黒川となる。
烏山川は豪徳寺、世田谷城址の南を回り、北上して国士舘の中央の2つの「文」、松陰神社の北側を通って東に流れていく。
代官山の西、桜並木でおしゃれな目黒川の上流はここだった。

区役所、国士舘の丘から西の谷に降りて豪徳寺の丘に上がり(別ブログ)、その南に連なる世田谷城址を訪ねた。
11:48
城主の吉良氏というのは足利一門で、家紋も同じ「丸に二つ引き」。
「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われたほどで同じく足利一門である三管領家(斯波・細川・畠山)より家格が高かった。その分、幕政への関与や守護大名として発展する面は抑制された。

三河と奥州の二系統あり、奥州吉良氏は足利幕府の奥州管領であったが衰退し、初代鎌倉公方の足利基氏に招かれ荏原郡世田谷に居館を築き土着した(武蔵吉良氏)。
空堀の遺構はあるが、豪族の居館という感じ。

戦国時代は北条氏の傘下に入るも、1590年の小田原征伐のあと世田谷城は廃された。
江戸時代は家格の高さから三河吉良氏とともに高家として遇されたが、吉良が二家はまずいということで蒔田氏を名乗った。しかし赤穂事件で吉良上野介が討ち取られ三河吉良家が断絶した後、吉良姓に復活した。

江戸時代以降、豪徳寺や畑に削られたのか、城は小さい。
頂上は狭く、これが本丸であるはずはない。
都営豪徳寺住宅(30平米、月48,000円ほど)から豪徳寺にかけての台地が城の中心であったのだろう。

11:50
城の面影はなくても、公園としては斜面があって優れている。
工場跡地のような四角平坦な空き地は、ゲートボールするくらいしか使い道がないが、木陰と坂があれば子供は鬼ごっこもできるし高校生のデート、老人が暇つぶしにベンチで休むのも良い。

城址の西隣、豪徳寺参道の前を通って東急世田谷線の踏切を渡る。
11:57 宮の坂駅
20年以上前、やはり豪徳寺を見た後ここから世田谷線で三軒茶屋に出た気がする。
駅名の宮はすぐそばの世田谷八幡のこと。
11:59 世田谷八幡
古くからあったが16世紀に吉良家が再興。
1時間ほど前に松陰神社で見た茅の輪がここにもあった。

いまの世田谷区の範囲には、江戸時代末期、42の村々があった。
1889年、市町村制施行で、荏原郡の村々は合併して世田ヶ谷村(後に町)・駒沢村(後に町)・松沢村・玉川村に、北多摩郡の村々は合併して砧村・千歳村になる。
1932年、荏原郡の町村は東京市世田谷区となり、36年には砧村・千歳村も加わった

吉良家家臣だった大場氏が彦根藩世田谷領の代官となり、その屋敷も近くにある(世田谷線を挟んで城跡の南)。だから歴史的にも世田谷区の中心は、区役所から世田谷城に至るこのあたりといってよいと思う。

何と言っても世田谷区というんだから、旧世田谷村のこのあたりが一番栄えていたのだろう。

2021年7月11日日曜日

豪徳寺、井伊直孝の猫、桜田殉難八士之碑

 6月30日、仕事で恵泉女学園に向かう途中、松陰神社に立ち寄った。(別ブログ)

 20210709 松陰神社は長州閥の聖地。桂太郎墓、広沢公神道碑

急いで恵泉のある経堂に行こうとするも、近くに豪徳寺がある。
途中で食事するのはあきらめてこの寺に寄ることにした。
 
松陰神社のある丘から西に坂を下り、城山小学校の脇から住宅街の緩やかな坂を上がると豪徳寺の東の塀にぶつかる。東門は閉じているので南の正面に回った。
2021‐06‐30 11:30 豪徳寺東門

11:32 豪徳寺山門
以前清藤さんと来たことがある。
手帳に1998年4月29日と1999年1月24日、両方にこの文字がある。
しかし二度は来ていない。一つは駅だろうか。
当時はたぶん井伊家の菩提寺という知識がなく(知っていたとしても関心がなく)、「Let’s豪徳寺」しか知らなかった。

11:33 忠正公神道碑
とは読めるが誰だか分からない。
神道碑については前のブログで書いた。

帰宅後調べたら忠正公は井伊直弼の次男、井伊直憲の諡号。
初代彦根藩主直政から15代目の当主である。
彦根藩当主としては17人の名があるが、直政長男の2代直継は上野安中藩、8代直治は5代直興と同一人物なので数えないことが多い。
仏殿 11:33

このあたりは中世の武蔵吉良氏の世田谷城の主要部だったとされる。
その一角に1480年、世田谷城主吉良政忠が伯母、弘徳院のために弘徳院と称する庵を結び、それが臨済宗のち曹洞宗の寺となった。

江戸時代になって1633年ころ譜代大名筆頭、井伊家2代直孝の時代、世田谷が井伊家の所領となったのを機に、領内の弘徳院が井伊家の菩提寺として取り立てられ、伽藍を建て、大々的に整備した。直孝の死後、その法号から豪徳寺と改名する。
この地は江戸から遠いが、南のほうに大山街道が通り、井伊家としても彦根に帰る途中である。

敷地一万五千坪の大寺
その割には人がいない。

庫裏
花鋏を持ったお寺の老婦人が何かしていらした。

11:40 仏殿の裏に本殿
白手袋の運転手が境内にぶらぶらしていて、霊柩車が止まっていた。
葬儀でもしているのだろうか。

11:34 招福殿の前に多数の招き猫。
直孝が鷹狩の折、住職の飼い猫「たま」の招きで落雷の難を逃れたという。
こんな昔から「たま」と呼ばれていたのが意外。
今や豪徳寺は井伊家より招き猫で有名。
彦根のゆるきゃら「ひこにゃん」はこの猫と関係あるか?

この招福猫は自由に手に取れる。
正月のだるまと同じように買い求めて家で飾った後、念願成就のあと持ってきて勝手においていくのだろうか?

絵馬も猫というのは悪乗りしている。

奥に進むと井伊家墓所。
23年前?に来たときは見なかった。
11:36 井伊家墓所
広い。
作業員が3人、落ち葉を掃いていた。
というかエアブローの風で落ち葉を寄せていた。
その音で静寂な墓域が工事現場のようになっていた。

井伊直弼墓
黒船が来航した国難に、老中首座、阿部正弘は幕政を今までの譜代大名中心から雄藩藩主(水戸斉昭、松平春嶽ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛の顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。

斉昭は攘夷を強く唱えたから、それまで幕政を担ってきた譜代の筆頭で開国派であった直弼としては面白くなかった。攘夷vs開国、さらには13代家定あとの将軍後継で一橋慶喜支持vs紀州徳川慶福支持などで一橋派と南紀派(譜代中心)は対立を深めていく。

阿部の死後、老中首座は溜詰大名(南紀派が多い)の、佐倉藩堀田正睦となる。彼自身は、幕閣内融和のため一橋派と協調路線を取ろうとしたが、もともとは開国派。幕府は開国やむなしと決め、堀田は上洛。ところが攘夷派の工作もあり勅許がなかなか得られず、手ぶらで江戸にもどる。この間に根回しした直弼は、大老に就任、日米修好通商条約に調印してしまった。一橋派はそれを咎め、斉昭、春嶽らが江戸城に無断で登城した。直弼はこの行為を責め、斉昭らと一橋慶喜を隠居、謹慎処分とした。

これら直弼による処分をきっかけに攘夷過激派の動きが活発になり、その結果直弼によって尊王攘夷派の公家、大名が処分、活動家が大量に捕縛されたのが安政の大獄である。
斉昭は永久蟄居、一橋派に属した幕臣も罷免された。吉田松陰らは伝馬町の牢で処刑され、その墓は皮肉にも谷を挟んですぐそば、さっき見てきた松陰神社にある。
11:38 桜田殉難八士之碑
そうか、8人だったか。

直弼による厳罰処分は反対派の反発を呼び、とくに斉昭がいて戊午の密勅(説明略)も受けた水戸藩の者たちは憤激した。脱藩した藩士が安政から万延に変わったばかりの雪ふる三月三日、桜田門外で直弼を襲った。60余名の行列が18名に襲われたのだが、丸腰の駕籠かき、徒歩人足、藩士まで逃げる者多数、必死に籠を守る者も雪で刀を袋に入れていたため、次々と討たれた。
ここは藩主と家族だけでなく江戸藩邸でなくなった藩士も葬られており、墓石は三百を数えるという。
染井霊園の松浦、藤堂ら大名家の墓は都内にもあるが、たいてい明治以降に亡くなった当主のもの数基で、このように江戸時代初期からあるのは珍しい。

11:45 山門から南に延びる参道
歴史というのはどうにでも作られてしまう。
井伊直弼は彦根では英雄であるが、全国の学校ではたぶん悪役として習う。明治以降の歴史教科書は薩長に有利なように書かれた。
つまり中世の秩序を壊し商業を発展させた信長は、大量の虐殺をしながら英雄と書かれる。しかし、避けられない開国を困難に打ち勝って成し遂げた直弼は、討幕派を弾圧、反対派を粛正したことで悪漢とされる。

ただし井伊家はその後、薩長、討幕派から幕府を守ったわけではない。
すなわち直弼死去のあと幕府内では一橋派が盛り返し、井伊家彦根藩は10万石減封されるなど、冷遇された。この結果藩論も分裂。
家康以来譜代筆頭として先鋒を任され、島津毛利が東進した時は関ケ原手前で抑える役目を担わされていたのに、戊辰戦争では薩長側につき、函館戦をのぞき全国を転戦した。

豪徳寺のすぐ西に世田谷線宮の坂駅がある。
23年前は雨が降っていた。ここから三軒茶屋に出た気がする。