2022年2月9日水曜日

65歳からの職探し4 修武台記念館の採用試験

定年退職をひかえ、再就職先を探しにハローワークに行った。
国立東京博物館150年史編集助手のパートは不合格、千葉の国立民族歴史博物館の巡回・パネル作成などは応募者が多くて断念したことは書いた。

ハローワークのネット検索でさらに探していると、航空自衛隊入間基地、修武台記念館の案内要員を見つけた。年齢不問、実働5時間、週2日程度、時給1060円。

この記念館は、旧陸軍航空士官学校の校舎を使い、自衛隊内部の資料館として1986年に開館した。老朽化のため2005年に一旦閉館し改築、2012年にリニューアルされた。空自隊員の教育訓練(精神教育)と伝統の継承が目的という。
年に数回、一般向けの見学会もしている。2年前の2019年11月、入間基地航空祭に行った帰りに修武台記念館の前を通ったことを思い出す。

修武台とは、かつての陸軍航空士官学校の別称である。
市ヶ谷にあった陸軍士官学校は、1937年に予科と本科に分かれ、本科は神奈川県座間町に移転した。このとき、航空兵科の将校を育成するため、10月、所沢飛行場の中に陸軍士官学校の分校が置かれた。翌1938年5月、豊岡町(現在地、現入間市)に移転。同年12月、勅令により航空士官学校として独立する。1941年には行幸の昭和天皇より「修武台」の名が与えられた。
なお、座間の陸軍士官学校(本科)は1937年12月に「相武台」、市ヶ谷の陸軍予科士官学校は1941年に朝霞に移転し、「振武台」の名を与えられた。(小田急の相武台前って、相模と武蔵にまたがる台地というより、武に向かい合うという意味だから。)

さて、案内要員は4人募集していた。
ハローワークのほかに入間基地公式サイト、公式ツイッターなどでも募っていた。
ご丁寧に「歴史や飛行機好きの方、特に大歓迎です。」と書いてある。
これは、軍事オタクなども応募するのではなかろうか。

所定の形式で願書を出すと案内が来た。
2月9日、採用試験。9:30~15:00って、何するんだろう?

当日、久しぶりの大事なお出かけ。
時計探したが見つからず、玄関出てからマスク忘れた、眼鏡忘れたで戻り、西日暮里を8:17発に遅れそうになった。
2022-02-09  9:18
西武池袋線、稲荷山公園駅は基地に接している。
駅から稲荷山門まで歩いて5分、受付は9:20~9:30というので、時間ぴったり。
 9:22 稲荷山門が見えた
係の人が待っていらした。私が最後だという。
電話されているとき、ちらりとお手持ちのリストを覗き見ると13人いる。
我々は速足で構内を歩き、昭和30年、40年ころの建物の裏口から入る。
二階に上がると階段のところに女性の係員も待っていた。

部屋に入ると、もう全員集まっていて何か説明も始まっている。
壁の時計を見ると9:29。早すぎるではないか。
旧軍は指示の5分前に集合というのはあったが、5分前に始まることはないだろう。
私の席は一番後ろだった。

机に置かれていた問診票に書き込むよう指示された。
私はオーバー脱いだり筆記用具出したりバタバタしていたので、後ろにいた係の方が小さい声で説明してくださった。

落ち着いてみれば、受験者は私を入れて全部で7人。
4人募集のところ7人か。
みな私のような老人男性。
髪の毛も薄くなり、風貌がさえないところも私に似ている。
よく考えれば1日5000円ほど、年間100日では、年収50万、若い人が応募するわけがない。
軍事オタクは居そうもない。

問診票は結構細かく聞いてくる。
高血圧か? 糖尿病か? などのほかに、
・聞こえないはずの音が聞こえることがありますか? 
・落ち込んで1週間以上仕事を休んだことがありますか?
・カウンセリングを受けたことがありますか?
33番 入れ墨がありますか(消した場合も含む)?
34番 自分の体を傷つけたことがありますか?
35番 乗り物酔いまたは閉所恐怖症はありますか?
36番 アレルギーはありますか(アトピー含む)?
37番 (やはりアレルギー、アナフィラキシー関連)
最後の38番が(女性のみ)妊娠していますか?
であった。
「有」をチェックしたときは、備考欄に詳しく書くこと。
「有」に1つでもチェックがあることで不合格になることはありません。
故意に事実と異なることを書くと不合格となります
と、くぎを刺してある。

このあと9:50から面接。
一人15分程度。
呼ばれて出ていくと面接室の前の廊下に椅子があった。
中でベルが鳴ったら入るように言われる。
こういう経験は40年以上なかった気がする。少し緊張。
目の前の壁には、帽子掛けのフックが2列でずっと向こうまで並んでいた。

中でベルが鳴った。
もう面接と分かりきっているのだから、いきなり入ってもいいのかな。
ちょっと迷ったが、ノックして「どうぞ」という声を待ってからドアを開け、入ってお辞儀した。名前をいって、指示を待って椅子に座る。
毎年、推薦入学、AO入試では面接官をしているが、今日は逆の立場。
面接官は3人。
階級はよくわからなかったが、胸の防衛記念章(訓練、職務遂行や災害派遣などの功績に応じて付与される)の数から将補(昔の少将)くらいの方々だろうか。

中央のきりっとした方から、応募の動機を聞かれた。
歴史好きで、水交会、東郷会、偕行社に入っていた経験、朝霞の観閲式、相模湾観艦式などの見学、入間、厚木航空ショーに行ったことを話した。(修武台記念館だからといって、Daytonの Air Force Museumや Colorado Springsの Air Force Academy の話はしなかった)
定年退職をひかえハローワークに行ったら、求人票を見つけ、ぜひ働きたい、と思いました、と。 本心からそう思っているのだから答えやすい。

次は左の人。
前職での仕事の内容は?
・・・薬の研究と教育の話を簡単にした。
見学者への説明をしますが、そのような経験はありますか?
・・・今、私大は受験者を増やすため、オープンキャンパス、研究室開放で高校生、保護者に研究内容など説明するのが必須になっています。
他の就職活動は?
・・・週2回なら余裕あるので、ほかの仕事も探そうと思っています。
家族の同意は?
・・・家にいられると困るようなので、採用されれば喜びます。
炎天下での説明もありますが、健康面はどうですか?
・・・同年代の人の平均以上の体力はあると思います。2年前まで我が家にはエアコンがありませんでした。熱中症で見学者が倒れても私は倒れません。

右の人は、同じ階級の方に見えたが、事務的な話ばかり。
給与は5時間で5300円、有休は6か月以降にとれます。社会保険はなし、など説明された後、何かご質問ありませんか?という質問だけだった。

その後、通勤時間などを聞かれた。

最後に「何か質問ありませんか?」という質問。
意表を突かれた。
当てられたき「分かりません、ありません、と簡単に言ってはいけない」と日ごろ学生に言っているのに、「とくにありません」と答えてしまった。
下手なことは聞けない。
「退職自衛官でいくらでも人材はいると思いますが・・・」と聞いてもよかったか?

部屋に戻り、7人全員が面接する間、ぼーっと待機。
ネクタイをしていないのは私だけだった。
皆スマホすら見ずに、じっとしている。
後ろに係員が二人座っている。ちらりと見たらスマホを見ていらした。
トイレに行く人がいた。
建物の中を見られるかもしれない、と尿意はなかったが私も部屋を出た。
トイレにはシャワーもあった。窓の外から基地が見える。
スマホを持ってきたが、写真を撮っても載せられないから写さず。
帰りに所長室という部屋があった。
入間には中警団司令部技能訓練所があるらしいから、この建物だろうか?

11:30頃、全員の面接終了。
13時まで昼休み、昼食をここで取るよう言われた。
買ってきたパンを食べていると
11:50、男2人、女1人の三人が入ってきて、一番後ろだった私の後ろに座り、昼食を取るよう言われていた。
やはり年配の方がた。何の職種の受験生だろう?

外でラッパの音が聞こえた。
時計を見ると12時。
ここまで誰一人として声を発していない。
昼休みだからいいだろう、と勇気を出して後ろの人に話しかけた。
聞けば調理補助の非常勤隊員だという。
しかし料理はできないと言われる。では何をするのか聞くと、食材調達とか野菜を切るとか、やることはいくらでもあるらしく、未経験でもいいらしい。彼は若いとき自衛隊にいてその後民間会社に行ったので、その隊員経験をアピールされたという。

みな昼食を終わり、スマホをいじったり読書したりしていると、12:30になって女性ばかり6人入ってきて、さらに後ろに座った。
係の人が我々と彼女らの間に立って説明を始めた。
聞いていると、我々と全く同じ、修武台記念館の案内要員、1日5300円、条件など全く同じ。そうか、男子と女子を分けて集めたのか。
応募者は全部で7人と思っていたのに、13人か。
男女半々で採用するとなると7人中2人か。とたんに難しくなった。

「13:10から面接します。○○さんと○○さんは先に健康診断からしてください」という。彼女らは12:30招集だったのである。我々も面接やりながら健診を平行すれば半日で済んだのではないか?

ラッパが鳴った。みれば13時。
「これから健康診断、終わったら解散なので、荷物をもってついてきてください」と全員外に出た。歩いていくと小さな建物。
入り口の右に「中部航空警戒管制団 基地業務群 衛生隊」
左に「入間基地 医務室」と表札がある。

まず採尿。
しまった。さっき、したくもないのに探検でトイレに行ってしまった。何とか絞り出す。
血圧は80‐110くらいなのに、上が133もあった。びっくり。この半年で上がったのだろうか。

聴覚は簡易トイレのような小さな防音室に入って測る。ヘッドホンをつけて音が鳴ったらボタンを押し下さいというから、いつも通りやった。聞こえてよかった。
しかし後で健診カルテを見たら1000Hz,20dB, 4000Hz, 35dBと書いてあった。隣の人のを盗み見ると15dB である。だんだん音を大きくするから聞こえたらすぐ押さなければいけないのに、いつも通り聞こえるか聞こえないかのチェックだけだと思い、のんびり押してしまった。

肛門の検査などはなく、ごく普通の検診だった。
女性医官による問診のあと、もう終わりと思うのだが、待合室(玄関ロビー)で待つよう指示された。
この日は自衛隊員の健診もあるようで、混んでいた。
待合室のテレビは午後のバラエティ番組で北京オリンピック、羽生のSP失敗についてやっていた。テレビの横には金魚の水槽、下にはマガジンラックがあり、「NHKきょうの健康」「Tarzan]などが入っている。壁を見ると、「限界突破」「雲外蒼天」といった書(隊員の作品)が飾ってあった。

待っていたのは人数を溜めるためだった。7,8人になると係の人に付き添われ、稲荷山門まで連れていかれ解散となった。うろうろされないようにとの措置であろう。
歩きながら途中で入ってこられた3人のうちの女性に話しかけた。やはり調理補助のパートを希望していらした。こちらの仕事内容を言うと面白そうですね、とおっしゃった。
14:22
門を出たからいいだろうと、ぱちり。

拘束が長時間だったわりには、面接の15分くらいしか意味がなかった。
パートとはいえ、噂できく思想、愛国心のチェックとかもなかった。
まあ、そんなものはやっても意味ないが、修武台、航空士官学校などの知識や、記念館運営に関する抱負を書かせて文章力をみるとか、簡単なパソコン技能もみれば、実務的な人材はとれる。しかし、それほどハードな仕事でもないから、話し方、人柄などで採否を決めても問題ないだろう。
14:36
急行池袋行きの車窓から
合格発表は3月中旬という。
遅いな。
暖かくなっているかな。
すでに染井霊園管理人、谷根千の某人気ベーカリーも落ちている。
老人男性の再就職は簡単でない。

受かるといいな。

あ、子ども大学で小学生を引き連れ、陸軍桶川飛行学校記念館の見学に行ったことを話せばよかったな・・・・靖国神社遊就館、知覧特攻記念館も話せた・・・・
車窓を見ながら反省していたら、面接官の方がマスクされていなかったことに気が付いた。私もマスクを外すべきだったか・・・


別ブログ

2022年2月7日月曜日

私と薬学5 田辺製薬に就職するまで


薬学部2年、修士課程2年の日々については、前回までに書いた。
農家の長男だったので、大学を終わったら長野に帰らなくてはならない。
それなのに、薬学部に進学して、大学院まで行ってしまった。
似た立場の同級生、高山尚志は潔く、学部を終えたら栃木・大田原保健所に就職した。

修士課程に進んだものの、うんと研究がやりたかったわけではない。
将来どうするか?
面倒なことは後回しにして毎日だらだら過ごしていた。

さすがに博士課程は考えなかった。
そのまま研究室に残り助手(定員2)になれるのは、助教授になったり出ていったりするまでが7,8年とすれば、3,4年に一人という計算になる。すでに1学年上の藤井勲、木内文之の両先輩、同級生の飯島洋、渋谷雅明両氏が進学を決めていた。私が行ったら5人になり、とても残れると思えない。第一、博士まで行ったら田舎にますます帰りづらくなるだろう。

百姓をやらないとすれば、就職は県庁か寿製薬か。
M1(修士課程1年目)が終わる3月、長野高校の名簿をみた。
この名簿は発行されたばかりで、その少し前に、長野高校出身で東京外語大在学中の女性に、自分の学年と一つ上の学年をコピーさせてもらったもの。
同学年のものは就職1年目、1学年上は2年目で、長野県庁に努めている人も何人かいたが知っている人はいない。

1年上で本藤珠美さんという方が寿製薬にいた。千葉大薬学部出身だから話が合いそう。思い切って電話して3月2日、話を伺うべく長野駅の近くでお会いした。ちょうど長野電鉄が地下に入る工事中のころで、入り組んだ仮路地の喫茶店だった。
しかし彼女は自分の寿製薬を薦めず、行けるならもっと大きな会社のほうがいいという。

残るは長野県庁。
どうせなら役所の中心のほうが面白いだろうから行政職で受けることにした。
4月、最終学年M2になって問題集を買った。上級試験模範解答集。シリーズになっていて全10冊。その中の法律職編Iを買って、勉強し始めたが非常につまらない。ほかの教養試験編、行政職編、経済職編は立ち読みした程度。
法律職編I 1980年3月1日発行。
憲法(主権在民、天皇の国事行為、)から始まっている。

ほとんど勉強しないまま試験日の7月20日が近づいてきた。そんなとき山本さんが同日にスチュワーデスとの合コンを企画した。試験は受かる気もしなかったし交通費ももったいないので結局合コンを選び、長野での就職は消えてしまった。

M2になって同級生は夏前にみな就職を決めていく。
さすがに焦った。とりあえずみなと同じように製薬会社に就職して、数年間かけて県庁なり教員なり、転職、帰ることにしようと思った。
就職担当の広部雅昭先生のところに行くと、教授室のソファーをすすめられ、短パンに汚い脚だったから座るのに恐縮した。そして先生は「長野ならキッセイ薬品があるよ。小林通洋君を知っている。いい会社だよ」と紹介された。しかし松本は実家から通えない。

8月になって、三川先生が「きょう、田辺製薬から求人が来たけど」と実験室に入ってこられた。教室の先輩、中野浩三郎氏が「誰かひとりいませんか?」とスカウトに来たらしい。聞けば荒川をわたった埼玉戸田に研究所があるという。川口からバス。薬学ボート部で2年、その後も運動会で2年通ったボートコースの近くだから、すぐ分かった。

埼玉は信越線沿線の信州出身者にとって親しみがあり、叔父も浦和にいた。給料はあまりよくないけど、どうせ将来の景気はわからない。しかし立地は将来も変わらない。武田、塩野義、藤沢など関西に行く気はなかったが、関東でも三共、第一、エーザイをみれば、どこよりも長野に近い。

何より、近年誰も就職していないことが気に入った。
関東の製薬大手は人気があって、山之内や第一などは同級生もすでに何人か決めていたから、あとから入っていくのは悪い気がした。また、1年上、2年上に東大がいっぱいいるところは将来の出世を考えたら避けたほうが良い。(と、今では笑い話のような心配までした)。

そのころ田辺に東大から行かなかったのは、スモン問題のせいである。
難病スモンの原因が、田辺製薬などの製造販売したキノホルムのせいだとされ、社会的大問題になっていた。助教授の秋山さんは友人の矢島毅彦氏が田辺をやめて東邦大に移ったばかりで、「あそこは優秀な人がどんどんやめて混乱している。やめたほうがいいんじゃないか」と心配してくれた。
しかし田辺の研究所はレベルが高いということでも知られていて、合成分野で田辺の人(溝口さん?)が非常勤講師で講義されていたし、「あそこはいい薬を開発したんだけど、今出すとスモンの補償金で取られてしまうから隠しているんだ」という噂すらあった。

8月8日、戸田の研究所の見学に行った。
中野さんは薬理研究所第3部(代謝部門)で、奇遇にも駒場寮の1年先輩で獣医学科に行かれた鈴木龍夫氏もいらした。部長室で針谷祥一氏と面談すると、やはりスモンの話になった。すると彼は「諸君!」という文芸春秋社の雑誌をとった。1980年3月号、『スモン病、田辺製薬の抵抗』宮田親平という長い記事がある。「これが一番まともに書いてあります」と私にくれた。

帰宅後、読んだ。
それまでスモンにはたいして関心がなかったのだが、きちんと科学的に書かれた文章は、「正義を振りかざし」何が何でも患者の味方をする(ふりをする)マスコミと違って、まじめに問題を論じていた。どう見てもスモンはキノホルムのせいではなかった。無知なくせに正義の味方だとうぬぼれ、権力を振りかざす馬鹿なマスコミと比べると、冷静に科学を前面に出し、権威、権力に対抗している田辺に好感が持てた。迷わず田辺に就職しようと決めた。

やがて田辺のほうから入社試験の案内が来た。
10月31日から11月4日まで大阪。西中島南方のビジネスホテル・ミツフに泊まり、大阪工場で筆記試験と内海工場長による面接。試験は漢字テストなど簡単なもの。面接は故郷信州についての世間話。本社でも面接があり、松原社長ら重役を前に大学院修了者17人の集団面接だった。形式的な入社試験で、3つ合わせても1日で終わるような内容である。これは他社を受験させないため一定期間束縛するのが目的だった。

工場での面接は、食堂が控室だった。
17人勝手に好きな席にだらんと座ってテレビを見ている。呼ばれたら一人一人出ていき、終わったら戻ってくるのだが、前後の待ち時間が長く、日本シリーズなどをみて過ごした。西本監督の近鉄対古葉の広島、鈴木啓示と山根・江夏の時代である。
また、期間中に休日があった。何もすることがないので私の発案で石原秀平氏、石毛徹夫氏を誘い学園祭にいった。梅田に行ってピアを立ち読みしたら神戸女学院があった。我々もまだ学生だったのである。
1980-11-03
後日写真を送ってくれたのは池藤園美さんという方。同封のメモは素晴らしく美しい文字で「就職試験はいかがでしたか」とだけ書いてあり、いかにも良家の娘さんという感じだった。住所は「徳島市」としか書いてなかったから、お礼の手紙は出せなかった。

今と違って就職活動はおおらかだった。
当時の研究所は部単位で新人が欲しければ、出身大学にスカウトに行く。私も二年後に農学部博士課程にいた友人をスカウトに行った。あるいは所長、部長が友人の教授に頼まれる。ほとんどそれで決まった。1988年になっても、私が学会で九大の桐野豊先生に(1990年入社予定の人を)頼まれた。上司だった長尾さんに話すと「来年度は豊作なんだよな・・・・」と言いつつも、ちゃんとその学生は入社してきた。
コネばかりの当時は高卒も含め、私大、国立もいて多様性に富んでいたが、ネットで誰もが応募できる今は、一見平等、しかし逆に旧帝大の大学院卒ばかりになってしまった。

就職試験が終わり、ボート大会、狭山人工スキー場、山本Maris desert House でのクリスマスパーティ。その間に老人研に行ったり、泊まり込みで実験したり忙しかった。就職試験で知り合った石毛氏を訪ねて飯田橋・東京理科大の研究室を自転車で訪ねたりした。廊下のすぐ裏が崖の壁だった。

年が明けるとサッカーの天皇杯決勝に田辺製薬が出ていた。
二部リーグのチームが一部リーグを次々と破り決勝進出するのは奇跡であり、三菱重工に0‐1で惜敗したものの、「一枚岩の団結」で倒産の危機を脱した会社はお祭り騒ぎであっただろう。実家で親や叔父とテレビを見ていて私も誇らしく思った。

田辺はキノホルムは絶対スモンの原因ではないと主張し、社会から猛反発を食らった。マスコミに叩かれるだけでなく田辺製品のボイコットも起き、倒産寸前までいった。
しかし陣頭指揮をとっていた平林社長(内海工場長との雑談面接のやりとりで上田出身だったと知る)が数年前に急死し、労働組合出身の松原社長になると和解路線に転換した。
見舞金は出すが、キノホルム原因説は受け入れられないとの方針、発言に患者側、社会は猛反発したが、やがては収束、全国各地の地方裁判所で急速に和解が成立していった。
その最中、直後での、私の就職、サッカーの天皇杯進出だった。
田辺としては、危機を脱し、明るい希望に満ちた正月だった。
(この年の新人採用は空前絶後の232人)

帰省から戻ると再び忙しく実験。
3月に入ると10日、修士論文発表会
1981‐03‐10
ネクタイは2年前の卒業式のとき根津不忍通りの小さな洋品店で買ったもの

3月15日、田辺製薬大宮寮の鈴木さんのところに遊びに行く
17日、赤羽浩一氏のご自宅で、全員修士に行ったボート部のお別れ飲み会
20日、教室の追いコン、紅白戦
21日、田中成田結婚、弓町教会・学士会館。
29日、谷中引き払い、荷物を叔父宅に
29日、新宿北の家族、駒場クラス会も6人だけ。
30日、車で長野へ。東京での私の6年間の学生生活が終わった。

1981‐03‐20 
追い出しコンパに先立ち農学部グラウンドで生薬学教室紅白戦
左から渋谷、大塚、小林、合田

1981‐03‐20 湯島・山辺里
この年、教室を出たのは小林、佐々木、北川の3人

・薬学部への進学、
・大学院への進学、
・長野でなく埼玉への就職。

以上、3つとも重大な事件だったが、長野の父へは事後報告だったか、いちおう聞いたか記憶にない。いずれにせよ、そうかと言ったきり、反対もされなかった。
その後、ずるずると埼玉の田辺製薬に勤め続けていると、群馬大工学部を出た弟が長野の会社に就職した。彼は東京の花王に行きたかったみたいだから、申し訳なく思った。その後、どちらが家を継ぐかはっきり話し合うこともなく、自然と彼は家に入った。私は何も言わず、ずるい人間だった。
本家の長男として生まれ、小学校高学年の3年間は岩船部落のお祭りの獅子舞の大役に選ばれ、村を将来背負って立つと思われていたのに、都会に出てしまった。
本来自由に人生を決められたはずの弟の将来を奪ってしまった。今更何も言えないが、頭が上がらない。

(続く)
次回は、田辺製薬代謝部門で、ホパテ誘導体のことを書く予定

2022年2月3日木曜日

レタスを初めて作ったが

レタスを初めて作った。
ダイソーで玉ねぎの種を買ったとき、2袋で110円なので、無理に数合わせで買ったもの。
アブラナ科ばかりの冬の庭に、キク科のものを作るのは連作障害防止の観点からも良い。
もちろん初めて作るということも、年齢を考えると良い経験になる。

9月11日、種をまく。
2021‐09‐15
先行する白菜(左上)を追い、レタスも順調に発芽。
一鉢に4粒ずつまいている。

2021‐10‐02
ネギ(左上)、レタス(左)、白菜(中央)

買ってきた種はサニーレタス。
アントシアニン類を含むため、本葉2枚の段階でも葉の先が赤い。

場所がないので大根の間に育苗していたが、大根が育ち始めた。
育苗中の玉ねぎ、白菜とともにレタスも移さねばならない。

しかし、レタス用の場所はまだサツマイモが占領している。
とりあえず、パプリカを先日移して空いたスペース(10月中には白菜を定植する予定)に移動させた。同時にポットに4粒もまいているから、一鉢一株にする。
この作業が植え替えを伴うから大変。朝6時前から2時間半かかった。

2021-10-10
大根の葉陰でなくなったが、ちっとも成長しない。
それどころか(白菜もレタスも)枯れるものも出てきた。

2021‐10‐18
白菜が1週間でだいぶ育ってきた。
そろそろ定植しないとまずい。
かわいそうだが頑張っているシシトウ(写真、向こう)を抜いた。

2021‐10‐18
白菜を定植し、その畝の間にレタスのポットを置いていく。
レタスにとっては3回目の場所。土地がないと苦労する。

2021‐10‐18
レタスは一か月たってもちっとも育たない。
向こうは10月10日、追加でまいたもの
2021‐11‐21
本葉が4,5枚のとき30センチx20センチで定植という。
しかし我がレタスは本葉は成長しているものでも2,3枚。
しかし、サツマイモの場所も空いた。
ポットの中よりも大地のほうが広々して育つだろうと思って定植した。

育たないまま年が明ける。
ほとんど大きさ変わらないまま寒波到来。
2022‐01‐07 積雪

2月3日、今日は立春。
妻が朝食に食べるレタスがないという。
2022‐02‐03 7:35
もう少し大きくしてから食べたかったが、そのころはホウレンソウ、白菜、小松菜など葉物がふんだんにあり、食べきれなくなるだろう。
本数を減らすためにも、小さいながらも初めて収穫した。

切り口から白い汁が出る。

レタスは地中海、西アジア原産、ギリシャやエジプトでは精力増強、催淫作用があるとされたらしい。切ったとき出る白い乳状の苦い液体が精液を連想させたからだろうか。もちろんそんな作用はない。学名Lactuca sativa L.のLactは乳だから、この白い液はよほど強い印象を与えたのだろう。(レタスそのものもLactucaと同じ語源)

長野の実家でも一時期作っていたから、白い液は褐色に変わることを知っている。

今回作ったサニーレタスはリーフレタス (L. s. var. crispa) ともいう。
一般の、結球するレタスはヘッドレタス (L. s. var. capitata) という。

ちなみに、アブラナ科に見えるサラダ菜もヘッドレタスの一種らしい。
普通のレタスはクリスプヘッド型(クリスプはシャキシャキしているところから)
サラダ菜はバターヘッド型(葉っぱがバターを塗ったように緑鮮やかで柔らかそうだから?)という。

・・・
テレビを見ていたら節分の話をしていた。
あ、立春は明日だった。
今晩の豆まき用に、秋に収穫した落花生を炒った。
今シーズン3回目、
いつもの大きさの紙封筒に入れ、電子レンジ600ワットで1分x3回がちょうどよい。



2022年1月30日日曜日

私と薬学4 天然物の生合成研究(修士論文)

生薬学教室について、第2回、第3回で書いた。
4年生は5人一緒の教育を受けた後、テーマを与えられる。

飯島洋氏は私と同じ部屋で菌が産生する毒素、citrininの生合成酵素をいじり始めた。
渋谷雅明氏はプロスタグランジン生合成酵素のシクロオキシゲナーゼを扱い、「魚の生臭さはこれだ」とアラキドン酸の臭いをかがせてくれた。
平尾哲二、成田有子氏はどんなことをしていたか記憶にない。毎日おしゃべりしていたのに、仕事の話をほとんどしなかったからだ。

さて、私は博士課程3年の嶋田寿男さんにつき、ペニシリンに似た抗生物質セファロスポリンをいじり始めた。
しかし、お恥ずかしいことに、何を目的にしていたのか、どんなテーマだったのか、さっぱり思い出せないのである。いくらぼんくらでも何も考えずに2年も実験していたとは思えないのだが。
手帳もノートもメモも、何も残っていない。頭から出てくるまま書いていく。

当時の実験室で覚えているのは、一日中イオン交換樹脂を大きなビーカーで、酸、水、アルカリ、水で何回も洗い、飽きてしまったこと。その臭い。
そして、どこから来たのか使用済みサントリーレッドの空瓶を大量に洗ったこと。中には枝豆の莢やたばこの吸い殻が入っているのもあった。それを容器にして褐色のキクラゲのようなカビを静置培養した。(あれ?セファロスポリンのカビは三角フラスコの振とう培養だったかな?)

セファロスポリンの定量を阻止円測定で行うため、枯草菌Bacillus subtilisを、当時目黒の国立予防衛生研究所のどなたかにもらいに行った。今は移転し跡地に高級マンションが建ったが、当時は戦前の海軍大学校の建物をそのまま使っていた。

培地上清からのセファロスポリンCの精製は難航した。活性炭カラムで精製していたが、収量は低かった。あるとき「まさか?」と思い、ごみ箱に捨てた使用済み活性炭の塊を拾い、アセトンで溶出させたら、大量のセファロスポリンが吸着していた。

セファロスポリンの定量は結局、液クロで行った。のちの卓上小型液クロ装置と比べると当時最先端、バリアン社の液クロの図体はとてつもなく大きかった。
オフコースの「愛の唄」(1975)を聴くとこの液クロ装置の置かれていた第4研究室(測定室)を思い出す。この年1978年、共立薬科大学から横山千鶴さんと若松美栄子さんが来ていて、私の鼻歌を聴いていた横山さん?も偶然オフコースが好きでLP「ワインの匂い」をカセットテープにダビングしてくれた。

当時薬学は7割ほどが大学院を受験した。実際進学するのは5割だったが、受かったのでそのまま修士課程に進んだ。就職活動が面倒だったのか、とくになんの目的もなかった。
入試の面接のとき、確か田村善蔵先生だったか、「修士では何をやりたいですか?」と聞かれた。「今やっていることとは違うんですが・・」というと、隣で三川先生が苦笑いするのを横目に、彼はにこにこしながら「いいよ、いいよ、言いなさい、言いなさい」と言われる。
まだ実家の家業が頭にあったのか、「野菜など、農産物の微量成分を研究したいと思います」と答えた。

私の進学と同時に嶋田さんが転出され、山本芳邦さんに指導を受けるようになってからもセファロスポリンをいじっていた。
M1の1979年夏、ラジオイムノアッセイでセファロスポリンを定量しようと、BSAにセファロスポリンを結合させ、ウサギの背中や首に注射して抗体を作らせようとした。血清を取り、穴あき寒天で沈降線をみるオクタロニー法でチェックした。確かに投与タンパクに対する抗体はできたが、何回やってもセファロスポリンの目的部位を認識する抗体はできなかった。韓国からの留学生、成忠基さんは、「抗体作成は科学技術ではありません、アート(芸術)です」と慰めてくれた。

それにしても何の目的で毎日実験していたのか、情けないことに全く思い出せない。
菌類によって合成されるセファロスポリンCはペニシリンNと同じように、α‐アミノアジピン酸‐システイン‐バリンのトリペプチドが閉環し、そのあと水酸化、アセチル化される。
教授の考えを今になって推定するに、その生合成経路を研究するため、その中間体、最終産物を培地中で(精製せずに直接、一斉に)検出、定量する方法論を確立しようとしていたのではあるまいか?

さらに1年たちM1も終わろうとする冬、カナダに留学していた飯島とハガキをやりとりした。2年たっても全く修士論文のめどが立たず、薬学史上初めてのM3(修士3年目)になるかもしれないと書いた。彼もM3になるかもしれないと言ってきたが、1年留学してレイク・ルイーズでかわいい日本人留学生の女の子と並んで写真に納まっている彼の場合はM3になっても不思議なく(しかしちゃんと我々と同時に修了した)、毎日苦闘している私とはわけが違う。

さて、2年ほどやって全く進展が見られないため、三川先生もさすがに心配になったか、M2になってテーマを変えた。
そのあとは修士論文が残っているので何をやったか分かっている。

当時実験室にエアコンはない。
冬はガスストーブ、夏はパンツ一つの上に白衣を着ていた。
山本さんは酵素精製のため温度差30度近い低温室と行き来した。

新しいテーマは、三川教授が誰かの博士論文のために温めていた文字通り「とっておきの」テーマだったが、残り1年を切ってしまった修士課程の私に「背に腹は代えられず」やらせたのである。

そのテーマはC-13NMRを生合成研究に応用すること。
炭素C-12は、陽子・中性子とも6つずつで核にスピンがなく、NMRで検出されない。しかしC-13は検出され、しかもその環境によって共鳴周波数がずれる。だから有機化合物の骨格をなす炭素がすべて観測できれば大きな情報となる。しかし、化合物中にC-13はC-12の1%程度しか存在しないため、シグナルが弱い。

ちょうど私がM1になるころ、薬学にC-13対応のFT-NMRが入った。さまざまな周波数を含む矩形パルスを何回も繰り返し与え、得られる自由誘導減衰波形をコンピューターで積算、S/N比を向上させてフーリエ変換する。
生合成研究に応用する場合は、C-13の低い天然存在比を逆手に取り、C-13で標識した、例えば酢酸を培地に投与する。得られた天然物のC-13NMRにおいて、ある炭素のシグナルが増大していれば、その部分は酢酸由来とわかる。

さらに、C-13のシグナルは隣もC-13(核スピンI=1/2)、あるいは重水素(核スピンI=1)であれば、カップリングを起こしピークが2本、3本に割れる。多くの天然物は酢酸(グルコース由来のアセチルCoA)が重合したポリケタイドから生合成されるが、二重標識の酢酸を投与し、得られた天然物にこれらのカップリングが検出できれば、化学構造において酢酸のC-C単位がどのようにつながったか、あるいはC-H結合が保持されているかどうか分かる。
ここまでは先輩の嶋田さんたちの研究で行われていた。

私のテーマは、これをさらに発展させ、天然物に存在する酸素原子Oすなわちカルボニルや水酸基、エーテル酸素の由来をC-13NMRで調べられないか検討することだった。
つまり、ポリケタイド系天然物を産する培地にカルボニルC-13とO-18の二重標識酢酸を投与し、得られた化合物のC-13NMRを測る。
ここでC-13のシグナルは隣の元素が重い同位体に置換されると高磁場側にシフトすることが分かっている。これを利用して、目的の炭素のシグナルが高磁場側にシフトしていれば、そのO原子が酢酸由来とわかる。つまり化合物中の酸素が酢酸由来なのか、空気あるいは水の酸素由来なのか明らかにできる。

具体的には、シトリニン、ペニシリン酸、アベルフィン(アフラトキシン前駆体)などの生合成でこの方法を試し、C-O結合がどこから来たか示すことができた。とくにアベルフィン、ストリグマシスチンなどのビスフラン環におけるエーテル部分の酸素原子が酢酸由来であったとき、両側のどちらのC-13 とつながっていたか分かり、生合成経路がどのようなものであったか、大きな情報が得られた。

M2の冬はデータ取得のピークで、わずかなケミカルシフトのずれを検出するに薬学の100MHz装置が不十分な場合は、板橋の老人研の松尾先生(220MHz)、そして導入されたばかりの応用微生物研の瀬戸先生(400MHz)のところへサンプルを持って行った。

C-13,O-18のデータが貯まる中、もう一つおまけで、C-13とN-15の二重標識化合物の生合成研究への応用についても検討した。
天然窒素N-14は核スピンI=1であるが、核の電荷分布が均一でなく4極子モーメントを持つ。そのため電場勾配によって核スピンは非常に早くエネルギー交換し、めまぐるしくその向きを変える。その結果、スピン結合しているC-13は短時間にすべてのスピン状態と相互作用するためシグナルは1重線となる。(重水素も同じI=1であるが、4極子モーメントが小さいため、C-13シグナルは3本に分裂)
一方、窒素の安定同位体N-15はI=1/2であり、C-13シグナルはきれいにカップリングして2本に分裂する。これを利用した。

ペニシリンは先に述べたように、α-アミノアジピン酸-Lシステイン-Lバリンのトリペプチドから生合成されるが、ペニシリンのバリン部分はL体でなくD体である。このL-D変換はそれまで、α位の水素が脱離して起こると考えられていた。そこで、C-13、N-15の二重標識バリン(カップリングあり)を投与し、得られたペニシリンのNMRをとると、バリン由来C-13にカップリングが観測されなかった。このことから、変換には水素脱離の定説とは異なり脱アミノが起きていると結論した。
修論要旨

修論発表会が終わると一気に春が来たようで、昼にみんなで湯島天神に行った。
梅は終わっていただろう。

しかし修士論文をすべて書き終わった3月の、しかも下旬になってもバタバタと仕事していた。
C-13,O-17二重標識化合物(O-18と違いカップリングする)の投与実験やそれまでの各種使用菌株の保存など。こちらは就職を控え、大阪に行く前に先立ち、アパートを引き払い長野に行きたかったのだが、三川先生は何も気を使われない人で、平気で用事を言いつけられた。合田幸広氏は「この忙しさはきっと将来のための財産になりますよ」と言って慰めてくれた。

C-13NMRはシグナルが小さいため積算が必要なことは書いた。とくにわずかなケミカルシフトのずれ、カップリングを見ようと思うと、数千回の積算で6時間とか10時間とか、長時間、装置を占有する。だから私が使うのは深夜に限られた。
昼は野球と実験、夜はNMR。 
寝るところ、地下の休養室は生化学系の人が使っていて、我々は南側の屋上の休養室を使った。プレハブのような小屋で冷房もなく、昼の間に熱せられ夜でも蒸し風呂のようだった。
たまに着替えと風呂に谷中のアパートへ帰ったが、深夜は弥生門が閉まっていて柵を乗り越えた。
パジャマ・運動着・実験着

M2の中盤からは本当によく仕事した。その集中力を誰かに褒められたことを覚えている。
野球をしたジャージとTシャツのまま実験して、そのままの服で眠り、翌日も起きたらそのままの格好で生協で食事、再び実験、野球、食事、測定、睡眠のサイクルを回していた。服を替えなかったのは、忙しかったからというより面倒くさかったからにすぎない。
(続く)

次回は、その5 田辺製薬に就職

別ブログ

2022年1月28日金曜日

私と薬学3 生薬学教室の人々と助手のポスト

このシリーズ、第1回は薬学に進学した3年生での学生実習をかき、第2回は4年生で教室配属されたときの同級生と山本芳邦さんのことを述べた。

さて、生薬学教室では野球が盛んだったことを前回書いた。
毎日、バットを担いで御殿下に皆を引き連れていったのはD2の高木重和さんだった。生薬はもともと入ってくる人が多くなく、大学院に進学する人も少なかったから、彼の下にはM1の藤井さん木内さんしかいなかった。それが1978年4月、一挙に4年生5人と山本さんが来たものだから毎日嬉しそうだった。
彼は、キャッチャーで4番、どっしりと太っ腹で、飲みに行くといつもおごってくれた。高木さんの1年上のD3の嶋田寿男さんとは仲が良くて、嶋田さんはいつも「おい、高木、払っておけ」と言っていた。

本郷三丁目の駅近くにラ・メールというスナックがあり、高木さんと二人で行き「長崎は今日も雨だった」を歌ったりした。カウンターの中に可愛らしい女性がいた。東郷さんと言って東大看護学校の学生でアルバイトだという。上野公園に行く約束をして後日、3人で不忍池のボートに乗った。さらに後日、私単独で彼女を呼び出し、図書館前噴水広場の東、今は文3号館ができてつぶされてしまった藤棚の下でおしゃべりした。しかし今一つ盛り上がらず、その後、会うことはなかった。
1979年3月

いつも明るく過ごされていた高木さんもD3になられた。ある夏の日、教授室から浮かぬ顔をして戻ってきて「おい小林、公務員試験について教えてくれ」という。聞けば、博士課程を終えたら厚生省管轄の国立衛生試験所に行くよう言われたらしい。
みな博士課程を終えたら研究室に助手として残り、助教授、教授を目指したい。ところが助手のポストは2つしかない。助手の在任期間が8年とすれば、4年間でたった一人しか残れないことになる。

海老塚豊助手の2学年下は、人材豊富で大塚英昭、木下武司、佐藤俊次、古川淳(以下、敬称略)の4人が博士課程に進み、大塚さんが医学部生化学教室、古川さんが応用微生物研究所8研に助手のポストを得て、木下さん、佐藤さんが残って助手となった。ゆえに我々が入室したときは、海老塚さんが留学から帰られたので助手は3人。まもなく木下さんがニューヨークに留学されたが、まだ二人。この年博士課程を終えた嶋田さんは、入る余地がなく帝京大助手に赴任された。

その年の忘年会だったか送別会だったか、湯島で飲んだあと、歩道に「秋山歯科」「野口眼科」という看板が並んで立っていて、酔った嶋田さんが蹴った。野口博司さんと嶋田さんは同じ年で、大学受験の時に東大紛争で入試がなくなった。嶋田さんは1浪、野口さんは2浪して東大に入られている。近いうちに佐藤さんが留学すれば野口さんが助手として残れるから、悔しかったのだろう。それにしても「秋山歯科」から連想される助教授の秋山敏行先生は嶋田さんとは全く関係ないはずで、看板とはいえ蹴られたのはとばっちりである。

嶋田さんは博士課程の最終年度、4年生の私の面倒を見てくださった。
最後の3月ごろだろうか、赤門前のすし屋に誘われごちそうになったとき、私に修士を終えたら帝京に来ないかと誘ってくださった。「博士号は取らせてやる」「女子学生はみんないい子でかわいい」という。
そして「小林と俺は6歳違う。教授の斎藤(保)さん、高井さん、みんな年回りがちょうどいいんだ」と言われた。ご自身の年回りで運命が決まったのがよほど悔しかったのだろう。

さて、高木さんの場合は、同級生の野口さんが残され、自分は出されるわけだから、前年の嶋田さんとは少し違う。年齢が野口さんより2年下ということよりも、助教授の秋山敏行さんについていて三川教授のテーマでなかったことも大きい。半ば予測されていたことだが、当日になって慌てるところが楽天家の高木さんらしかった。

その助教授の秋山さんは、三川潮教授と8年しか違わず、先代・柴田承二先生のきょうだい弟子であり、三川先生の部下ではなかった。だから独立しており、自然秋山さんの部下を三川さんが採用するわけがない。
秋山さんはニンジンサポニンやステロイドの研究をされており、そのグループは博士課程1人、4年生1人、留学生1人を従えた4人構成だった。
このころ、東大薬学は100MHzのNMRを導入した。それまでのNMR(60MHz)の周波数スキャン方式(実際は磁場をスキャン)と違い、さまざまな範囲の周波数を含む矩形パルスをあたえ、得られる自由誘導減衰をコンピューターに取り込み、フーリエ変換して周波数スキャンと同じ波形を得る。すなわちFT-NMRであった。その原理がよくわからず、たまたま口にしたら、秋山さんはさっとその場で図を書いて説明してくださり、その頭脳明晰さに(失礼ながら初めて)驚いた。
私がM2のとき、他大学から卒業研究で池田さんが来て秋山先生のテーマを手伝った。その後、彼女は私と結婚したこともあり、秋山先生は西武新宿線鷺宮のご自宅に二度ほど呼んでくださった。一度は長女が妻のおなかにいた時、二度目は1才の時だった。
彼は東大教授になれないことが分かっていたから、製薬企業に転出された。そこではアマゾンや東南アジアに植物採集に出かける仕事も任され(許され?)、楽しまれていた。植物がお好きだったのか、その後高知の牧野富太郎植物園に転職された。

さて、嶋田さん、高木さん、佐藤さんが出られたあと、助手は海老塚さんと野口さんになり、人事の悩みはしばらく去った。

海老塚さんは我々が入室する前に留学から戻られ、教室全体を整備している最中だった。開かずのロッカー、戸棚などをあけ、代々たまった書類、ガラクタの処分。戦前の先生らが留学先から持ち帰った試薬とか、ガラス器具とか、使えない、使わないものを捨てた。私はガラス器具を五月祭で一つ10円で売ったが、他大学からたまたま来た先生は、これはお宝だ、といくつか持ち帰られていた。海老塚さんは教授に代わり、教室運営全体に目を配る立場であった。
一方で野球はファーストを守り、「グラブが少しでも触れたのなら、取れるはずだ」という名言を残された。また、ちょうど猛暑で水不足が話題になったとき、我々が器具を洗う姿を見て苦言を呈した。「ブラシやスポンジを動かしているときは蛇口をしめろ」。この名言は、その後45年間、私もその通りだと思い、企業に入っても実行したし、今も台所の妻を見て思い出す。しかし彼女にそうは言えない。
エーテル缶は100円

野口さんは父上が東大農学部の教授で、阿佐ヶ谷に住まわれていた。典型的な戦前からの山の手育ちではなかろうか、クラシック音楽や絵画、ワインに造詣が深く、貴族趣味であったが、外見は汚い白衣に頭は手ぬぐいを巻き、山田ルイ53世を思わせるように太っていらした。だから昼はよく砂糖のないヨーグルトでダイエットされていた。
しかし三川研の二本柱の1本として、ラボを支えた。和洋、甘いものに目がなく、後年、静岡県立大を突然アポなしで訪ねた時、冷蔵庫から美味しそうなスイーツがさっと出てきたのはさすがである。
私の修士論文では内容ではなく、図における構造式の配置具合、白黒のバランスが絶妙だと(芸術的見地から)ほめてくださった。また、後年博士論文を出し口頭発表したとき、質問された先生と言い合いになった。それを聞いていた野口さんに後で「審査する人に逆らう人は珍しい」と、これまた内容でない点で面白がられた。

野口さんの下は山本さん、そして1学年あいて我々の1年上の藤井勲さんと木内文之さんだった。お二人はたぶん学年全体的に見ても多分かなり優秀な方々である。しかし魚津高校、野沢北高という田舎出身のせいか、万事控えめであられた。

藤井さんはスキー、テニス、野球、すべてスポーツ万能、実験もよくされていた。培養実験などで、私などは、失敗したらやり直せばいいと思うのだが、彼は失敗をある程度想定してバックアップも走らせ、それが無駄になったとしても、失敗が分かってからやり直すことの時間の遅れを戒めた。費用が掛からないなら手間を惜しむな、時を惜しめと。
野球で肩を痛めたとき、まじめに左投げの練習を始めたあたり、普通の秀才の発想ではない。
西武線の沿線に住んでいらした。一見クールなのだが、毎週、電車の網棚から漫画雑誌を拾ってこられ、我々も恩恵にあずかった。引っ越しを手伝いに行ったとき、弦のない壊れたギターが転がっていて、ごみ置き場で拾ったと言われる。ボディにサインがしてあったが、誰のサインか藤井さん含め全員わからなかった。

木内さんはコーラスでもやっていらしたのか、歌をハモるのがうまかった。ご自身の結婚式で親戚の方と歌われた「朧月夜」が記憶に残る。カメラが趣味で、我々みな生薬時代の写真が多いのは彼のおかげである。きちんとした事務処理で信頼されていたため、教室行事の会計とか実務を任されていた。
彼の研究テーマで、キャンパスの北の端、応用微生物研から20リットルの培養上清をいくつか南端の薬学まで運ぶのをお手伝いしたときは疲れた。その功績か、M2を終えて教室を出るとき、記念品としてバドミントンラケットをもらった。記念品価格の上限を超えていたが、木内さんの一存で買っていただいた。

その下の我々の学年5人については前回書いた。

我々の下の学年は1979年4月入室の4人。
まず、広島出身の合田幸広。彼は中学のとき広島市民球場でライトを守ったという。長身を生かし、腰痛で野球をやらなくなられた海老塚さんのあとのファーストを守った。彼の美人の奥さんは確か私と一緒に行った合コンで知り合ったのではなかったか?(記憶あいまい)。インベーダー、パックマンなど当時はやったテレビゲームがうまかった。彼は背も高いが声もでかく、私の結婚式ではエールの音頭を取ってくれた。

石川芳明は桐朋出身。合田と違って静かな男。教室でスキーに行くとき、ビクトリアとかではなく、一式をデパートでそろえた。30年ほど前、東大医学部薬理の同窓会でばったり会って懐かしかった。数年前、地域雑誌「谷根千」の大昔のバックナンバーを読んでいたとき、読者投稿欄に彼の名を見つけた。本人かどうか、どちらか死ぬまでに確認できるだろうか。

根上慶子さんは偶然にも私の高校の同級生と付き合っていた。話し方に横浜育ちのせいなのか、何とも言えない品の良さ、可愛らしさがあった。

フジキヨ(藤井清孝)は福井出身、生薬で唯一、恋人がいる学生だった。気が合って、昼は二人でメトロ(学内の喫茶店)で毎日カレーとソフトクリームを食べていた。
1980年3月
やはり野口さんはカメラでなくケーキを見ている。

1980年3月、彼は卒業を前に千葉大医学部を受験、合格した。
みんなでケーキを買ってきてお祝いした。写真の女性は翌月からフジキヨと入れ替えで秋山さんのところに卒業研究で他大学から来ることになっていた池田さん。なぜかこの日、写っている。このあと彼女は包丁だかケーキのお皿だかをひとり教授室手前の流しで洗っていた。フジキヨはその後ろ姿を見て、盛んにアタックするようすすめたが(私への最後の遺言?)、おとなしい子で接点もなく、私はその後数か月、親しく話をすることもなかった。

次の学年、1980年4月入室したのは以下の3人。
北川祥賢。金沢大付属、私と同じ昭和31年生まれ、実験台も向かいで気が合った。サザンオールスターズとビートルズが好きで、12月、ジョンレノンが殺されたときはひどくショックを受けていた。文字がきれいで文章が抜群にうまかった。彼はのちに「いとしの乗り入れ列車」を出版している。休日に二人きりで実験室にいることがあった。彼が石川県松任から送ってもらったというインスタントラーメンをビーカーで作って食べた。エビの味がして、65年の間、これほどうまいインスタントラーメンを他に食べたことがない。

小林貢。かの教駒出身だが、とても優しくて表情も穏やか、そして控えめだった。研究室が別だったから話すことは少なかったが、クラシック音楽に詳しい野口さんをして、「あいつのクラッシクの知識はすごい」と言わしめた男である。しかし全く自分からはそういう話をしなかった。

佐々木千草。福島女子高。とても可愛らしい女性だが頭が良すぎるのか何を考えているのか、本心なのか冗談なのかよく分からなかった。1991年、福島市で学会があったとき、思い切って電話して呼び出し、古関裕而記念館で会った。(だから私はNHK朝ドラ「エール」よりずっと前から小関には詳しい)。京都で祥賢と3人で会って以来10年ぶりだったが、やはり不思議な女性だった。
1980夏、式根島
この学年で特記すべきは、他大学から女子が3人も卒研でいらしたことである。東京薬科大から田村有子さん、黒岩敏美さん、東邦大から池田万里子さん。それまで女子が来ても男の中で独りぼっち、借りてきた猫のようだったのが、一挙に3人来たことで雰囲気がガラッと変わった。そこに佐々木さんと秘書の山崎麻美さんが加わり、スポーツ大会や教室旅行だけでなく、昼食や実験など毎日の空気まですっかり明るくなった。

他大学からの卒研生受け入れは、テーマとスペースはあっても人手がない東大と、リソースが少なく全員にきめ細かく指導することが難しい私大のニーズがマッチしたシステムだが、ほかのメリットもあったのではないか?
毎年、女子学生の多くは野口助手につけられた。三川教授の親心だったかもしれないが、恩恵を受けたのは彼でなく、藤井さん、祥賢、そして私だった。
(続く)

次回はようやくアカデミックな話
(予定)第4回 天然物の生合成に関する研究

別ブログ

2022年1月26日水曜日

私と薬学2 生薬学教室、同級生と山本芳邦氏

学部全体70人一緒の1年間を過ごし、4年生に進級した1978年4月、我々は各教室に配属された。

毎日徹夜が続くと噂された生化学系、全員同じようにいくつものフラスコで反応を仕掛けている殺風景な有機合成系、それほど好きでない動物実験をやる薬理系、今一つテーマにぴんと来ない物理化学系、どれも是非やりたいというものがなかった。
結局、私はあまり特徴のない(バリバリ研究しているイメージのない)生薬・植物化学教室を選んだ。植物という文字が入っていたからかもしれない。

この教室は、東大薬学の前身、医学部製薬学科が明治10年(1877)の東京大学設立と同時にできたときの3講座すなわち、衛生裁判化学(丹波)、生薬学(下山)、薬化学(長井)のひとつである。
創立100年後に我々が進学したときの各教室の序列(たとえば紹介順)もこの3つが先に立っていたが、145年後の今、東大薬学の公式サイトでは各教室の名前も変わり(生薬は天然物化学に)、研究室紹介も分野別に並べられ、明治からの序列は消えた。

1978年4月
教室配属されたばかりの4年生5人
飯島洋、渋谷雅明、平尾哲二、一人おいて成田有子氏

さて、配属された4年生5人はテーマを与えられる前に、基礎教育のプログラムを受けた。
1年前の学生実習の分析と同じように、混合物を各自渡され同定しろ、というのである。1年前は未知混合物をTLCで分け、Rfと染色状況で推定しただけだったが、今度は混合物をカラムで分離して結晶単離し、融点、MS、IR、NMRなどのデータを取って構造式に到達せよというのだ。

この部屋は明治以来、生薬などの成分すなわち天然物の構造決定をしてきた研究室だから(下山を継いだ第2代の朝比奈泰彦は、クロロフィルの構造決定でノーベル賞を取ったヴィルシュテッターのところに留学し、帰国後生薬中のフラバノン類の構造研究などで1943年文化勲章を受章、1951年、52年の2回ノーベル賞候補にもなった)、そういった天然物化学の研究で必要な精製単離と機器分析の知識、技術を最初に習えということだ。

一人一人違う未知物質の同定はミステリーを解くようで、学生がやる気を出し、競争心も煽る。かつ実用的な知識、技術の習得において教育的効果も高いということで、他の研究室でも行われていた。たとえば毒性薬理学教室では、我々のように精製分離して機器分析、構造決定するのではなく、決められた候補物質の中から5つの試料を渡され、それらの腸管収縮や、ラットの血圧、心拍数への作用を見る。どのくらいの濃度で、どのような作用をみせたか観察し、教科書の記述と比較しながら、どれがどの候補物質か決める。もちろんこの過程で、標本作成や動物実験の基本を学べるようになっている。

4年生の教育では当然、座学もあった。
「Biosynthesis」(著者忘れた)という天然物の生合成に関する本を5人で輪読した。外国人かと思うほどきれいな英語を話される三川潮教授と、ブリティッシュコロンビア大から帰国された筆頭助手の海老塚豊先生が指導してくださった。

ところで各自購入したBiosynthesisは海賊版だった。今でこそ洋書は丸善、紀伊国屋などのネットでほとんどのタイトルが安く手に入るが、当時は高価でしかも注文してもなかなか届かなかった(注文したことはないけど)。
もちろん海賊版は違法であるから、きれいなオリジナルカバーはついておらず、真っ黒な表紙で製本され、無地の紙カバーで背のタイトルは隠されていた。私はBiosynthesis全4巻の他にもMerck IndexやC13-NMRの本などを買った。メルクインデックスなどはオリジナルより製本がしっかりしていた。
しかしBiosynthesisなど日本で何冊売れただろう? 危ない仕事の割にはほとんど儲からなかったのではないか? 海賊版出版も大学の先生に懇願されて続けていらしたのではなかろうか? 我々に本を持ってきてくださった彼が帰った後、博士課程D2の野口博司さんから、「ばれると彼の手に縄がかかるから絶対に外に知られないように」と言い含められたが、むしろ悪いのはこちらだろう。

さて、我々4年生5人は基礎教育が終わると助手あるいは博士課程の先輩のもと、各テーマに分かれた。

5人のうち、飯島は船橋高校出身、松戸から通っていた。成績もよく、三川ー海老塚ー藤井、とつながる、主流の生合成酵素の精製をテーマに与えられた。M1のとき、教授の勧めで1年カナダに留学したが、ちゃんと修士課程を2年で終えた。彼は私の文字(丁寧に書いたとき)をかわいらしい、といつもほめてくれた。

渋谷は駒場のころから渋谷区富ヶ谷に住み、千代田線で通ってきていた。福島高校では水泳で県の代表になるような選手で、研究室でもブルワーカーで鍛えていた。1977年9月二食の地下で学内水泳大会があり、3年生だった私と渋谷が面白そうだと出た。私はしょっぱなの50メートルバタフライで力尽き(4人中4位)、残りの平泳ぎ、自由形などもさえず。一方渋谷は出たすべての種目で優勝、入賞した。彼のとった大量の賞品は同じものが多数あったため、ナップザック、髭剃り、折りたたみ椅子などをおすそ分けしてもらった。

平尾は静岡学園出身、平尾昌晃の甥?にあたり、ギターがうまく、絶対音感があってどんなの歌でも伴奏できた。当時は数少ない車もちで、本田シビックにみんなで乗せてもらい野球やテニスに出かけたものだった。五月祭のとき二人で声をかけた東京音大の二人のうち、かわいいほうと付き合うことになったとき、私にすまなそうにした。しかしそれは彼女が平尾のほうを気に入ったからで、仕方がない。その後、彼は教室旅行などでも私に相手が見つかるよう気を使ってくれた。もてる男は、成田恵一(留学)、福田祐士(伊藤忠)、中垣俊郎(厚生省)など大学院に行かず外へ出る傾向があり、彼も修士に行かず就職した。

唯一の女性、成田さんは千葉高出身。天然ボケというか、常にどこか抜けたところがあり、樹脂を洗っている大型ビーカーの中に腕時計を落としたりしていた。食堂で昼食の後、生協でアイスクリームを買おうと、二人で冷蔵庫を覗き込んだことがある。彼女の胸が私の腕に当たっていたので、ぐにゅっとひじを動かしたらひっぱたかれた。

・・・・
生薬はスポーツが盛んだった。
テニスは先代教授の名を冠した柴田杯が毎年行われ、真っ白な装束で固められた柴田承二先生はじめ、斎藤洋先生、山崎幹夫先生らも参加された。我々は準備と称して前の日から検見川に入り合宿所で模造紙にトーナメント表を書いたり、宴会するのがテニス以上に楽しみだった。

そして一番は野球。
薬学部内のトーナメント戦のほか、東京薬科大糸川研、昭和大庄司研、千葉大との定期戦、さらには理学部高橋研や、薬学内の他の部屋との臨時の親睦試合もあった。

生薬では、暗くなったらできない、という理由で午後の一番いい時間に御殿下グラウンドに出かけ、ノックを受けた。ほかの部屋が春、秋の研究室対抗トーナメントの前日にキャッチボールするだけなのに対し、生薬はシーズン中ほぼ毎日4,5人はグラウンドに出た。

我々5人が4年生で教室配属になったのと同時に、千葉大から山本芳邦さんが博士課程に入学された。彼はルックスが良いだけでなくスポーツ万能で、すぐにエースとなり教室野球チーム「生薬OL学園」の黄金時代を築いた。(OLはPLをもじったつもりだったが、女性すなわち永井豪のハレンチ学園を連想させてしまう)

教室に入ったばかりの1978年5月
千葉大薬学、坂井・相見研究室との対抗戦(検見川グラウンド)。
2イニングだけピッチャーをやらせてもらい、三振も取った。
おや、敵のセカンドランナーは昨年明治薬科大学を退職された齋藤直樹氏(当時M2)ではないか。
前年まで千葉大を引っ張っていた山本さんがこちらに移ってしまったため、この年は圧勝だった。
山本さんは、このブログの「忘れられない人」シリーズで独立させてもいいくらい話があるのだが、ここで書いてしまおう。

彼はハンサム、スポーツ万能だけでなく関西にある香料会社の御曹司だった。教授の客が外国から来るときは成田まで車で迎えに行くよう頼まれたし、話もうまくて大きな宴会の司会は彼に任せれば万全だった。
こう書くと非の打ちどころのないような人だが、けっこう間抜けな失敗もされる人間的な人で、みなに愛された。バレーボールでスパイクした後、相手のコートに転がり込んでしまい、オーバーネットどころかコート侵入、審判に反則を取られないよう慌てて四つん這いで戻ってきた姿は他の研究室の人々も大笑いした。

私は修士課程の2年間、彼の隣の実験台で公私ともに指導を受けることになる。
バレンタインになると千葉大の下級生から郵便で送られてきたチョコレートを私に自慢した。スチュワーデス相手の合コン(彼が企画した)では、我々が全く彼女らを満足させる話ができず手出しできなかったのに、彼は彼女らの一人を送っていき、電車の中でそっとキスしたと嬉しそうに話された。
すでに結婚されていて、奥さんのご実家が持っていた目白の一軒家に住んでいらした。
同じ目白の学習院を出られた奥さんは、このころ、ご自宅をケーキとお茶を出す店にされた。Mari’s Dessert Houseといい、当時は閑静住宅街にある隠れ家的な店は珍しく、雑誌でも紹介された。優雅にケーキとお茶で当時破格の1000円もしたから、普通の喫茶店のような忙しさ、暗さはなかった。客としては一度もいかなかったが、クリスマスパーティなどには呼んでもらった。

検見川で奥さんもご一緒にテニスでもやった帰りだったか、車2台で奥様のご実家に寄ったことがある。みんなでお茶だったか、夕飯(チャーハン?)だったかごちそうになったが、駒込駅のそば、大きな家が並ぶ一角で、今思えば本駒込の大和郷だった気がする。奥様のご実家は何をされていたか知らないが、軽井沢と伊豆に別荘があり、伊豆にお呼ばれした。ホテル川奈でお茶を飲むなどは彼女がいなければ経験できなかった。麻雀旅行だったのだが、奥様は途中で買われたアジでたたきを作ってくださった。山本さんがみそ汁を飲んで「あ、インスタンドだな」と指摘したが、我々はインスタント味噌汁なんてハイカラなものは飲んだことがなかった。彼女は今も目白のあの場所でスペイン料理文化アカデミーを主宰されている。
ピッチャー山本、ショート小林
背景は七徳堂(東京都選定歴史的建造物)

私が人集めした合コンを、山本さんの知る銀座の店ですることになった。なんでも支配人が彼の父親と海軍で一緒だったという人で、途中あいさつに来られた。相当高かったと思うが「山本香料のおごりだ」といって全部払ってくださった。

彼の話はいくらでもあるのだが、仕事の話をすると、私がM2の終わりごろ、修士論文の最後のところでペニシリンを上手に分解してNMRを取る必要がでてきた。このとき彼が鮮やかに予備検討をして助けてくださった。遊びだけでなく研究、実験の達人でもあることが最後で分かった(最後というのは冗談)。

(続く)
次回は
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2022年1月25日火曜日

日本医大病院の改築と薮下通り(その2

湯島のキャンパスで入試業務があり、終わってから歩いて帰宅した。

東大構内を突っ切り、根津神社裏門坂上の日本医大の角に来た。いつもはまっすぐ漱石旧居跡の前を通って、大観音の横を北上、養源寺の前に出るのだが、久しぶりに坂を下りてみた。

長く工事中だった日本医大病院の薮下通り側がすっかりきれいになっていた。

2022‐01‐25 13:51
広々としたタクシープールができていた。
以前は道路に止まっていたのではなかったか?

薮下通を渡る陸橋も撤去され、長いものが新設されていた。

これだけ新しいと中も入ってみたくなる。

13:53

薮下通の上の陸橋

坂の上からは地下1階に見えるが、薮下通と同じ地面

13:57
2年ほど前、ここの院内薬局に来た。
セミナーに使える会議室もあって、広い面積を占めていたが、この案内板は外来患者用だから窓口の「お薬渡し口」としか書いてない。

13:59
薮下通に出た。古い建物が道路まで迫り、病院で出たごみが通りから見えたものだったが、すっかりきれいな斜面になった。
植込みの間を歩けるようになっている。

14:00
解剖坂もすっかりきれいになった。
工事のフェンスに覆われていた時は、ぎりぎりまでビルができるかと思ったが、いい感じになった。利益を上げようとベッド数を増やすため床面積を広げたら、つまらない景色になるところだった。日本医大はこの空きスペースを作ることで、大学病院としての品格を保った。45年前から薮下通を愛してきた私は、変化を残念に思っていたが、この景色はうれしい。

日本医大千駄木2号館
解剖坂下から薮下通をすすむとすぐ。
以前ここの土地が売りに出されたことを記憶している。
日本医大は近隣で広めの敷地が空けばたいてい買っている。

14:02 汐見坂下

朝倉響子邸はマンションとなり、その石垣はほんの一部を残して消滅した。
右側にあったレンガの塀はもっと前に消滅している。

ほんのわずかになった石垣をしみじみ見たことで、「汐見坂」という標石を初めて見た。

朝倉邸跡にできたマンションは落ち着いた雰囲気だった。
14:04
かつて朝倉段々と名付けた石段は、セットバックが必要だったのか広くなっていた。
右側の石垣はかろうじて残っている。

しかしここも空き地だから、石垣もいつまであるかわからない。

14:07
坂を上がり、汐見小学校の上まで来ると、旧早川邸あとのマンションも洗濯物を干している部屋があり、生活感が出て、景色になじんできていた。

見れば、ベランダを部屋のように奥まで引き込ませている。これなら洗濯物が外に出ず、雨にも当たらない。いすを置けば外の空気を楽しめる。

かつての薮下通の写真を載せておく。

根津裏門坂と日本医大 2018
右側手前の建物が撤去された。
解剖坂 2018
左側が日本医大解剖室のあったところ
汐見坂下(2001)
かつての朝倉石段 2017
20181015 拡大する日本医大、解剖坂、猫の家
20181014 ふれあいの杜とお化けだんだん