2023年5月22日月曜日

ジャガイモはモザイク病、芽出しサツマイモはネズミ

 ジャガイモは種芋を用意しなかった。食用の芋から芽が出て、毒だから捨てるところ、その芽だけを試しに埋めたら、すこぶる発育が良かった。しかし春が進むとどんどん葉が枯れてきて、無残な状態となった。

2023‐04‐26
すなわち、半分近くモザイクウィルスにやられた(中央)。
モザイク病に感染した株は畑から除いて他への伝染を防ぐのが鉄則だが、どうせ蔓延していると思って放置した。完全に枯れてしまったもの、枯れそうなもの、持ち直したが発育悪いもの、いろいろ。
2023‐05‐16
さらに放置していたら、枯れそうだった株は完全に枯れ、枯れていた株は姿かたちがなくなった(写真中央)。つまり持ち直すことはなかった。
光合成をしていないのだから地中に芋があったとしてもこれ以上大きくなることはない。
掘ってみよう。

意外なことに、どの枯れた株にも芋はできていた。しかし小さい。

2023‐05‐16
左、モザイク病でやられたジャガイモ。
右、スーパーで買ってきた新ジャガイモ。
ムカゴを食べることを思えば、この小さな芋も食べられぬことはない。

5月20日、長野の実家に行った。
物置に昨年掘ったまんまの大量のジャガイモがあって、すべて芽が出て萎びていた。弟はこれを畑に捨てに行くというので少しばかりもらってきた。
2023‐05‐22
ふつう関東ではジャガイモは3月に植えて6月ころ収穫だが、長野では今埋めてもいいらしい。3月は雪が消えていないし、冷涼を好むジャガイモも、長野では育つのだろう。
関東でも5月に植えて育つかどうか実験することにした。


さて、次はサツマイモの話。
サツマイモは栽培時期がジャガイモと季節対称、いま芽出しの最中。
(苗を買ってくればいいのだが、あえて苦労を選ぶ)

昨年収穫した紅あずま、シルクスイーツ、それから買ってきた(食用)紅はるかの3種の芋を、地中に埋めた(3月12日)。
保温ビニールをかけて1か月経つと、まず紅はるかが発芽した。

2023‐04‐27
他の2種類のサツマイモはどうかな?と覗いたらショック!!
奥の右の芋(紅はるか)と、中行(シルクスイーツ)の右端の芋がない。
庭でうろうろするヒキガエルやスズメは持っていけないと思うし、カラスだろうか?ネズミだろうか?

紅はるかに半月ほど遅れ、シルクスイーツも発芽。
5月になっても、紅あずまは発芽しないため、食用の芋を埋めた。

ところが5月9日、その埋めたばかりの紅あずまと、芽を出し始めたシルクスーツ2つが持ち去られた。
そして、ふさふさと芽が成長してきた紅はるかは、芋の部分が大きくかじられた。
ネズミに間違いない。

現場には葉のついた芽が散乱しており、まあ、苗として使えるが、シルクか紅はるかか、どちらか分からなくなってしまった。

そして齧られた9日後、トウモロコシの生育を見ていたら、ネズミが死んでいた。
2023-05-18
こんな日当たりのいい場所で(畑としては日当たりイマイチだが、ネズミらにとっては異常なほどの明るさ)、死ぬとは、精神的におかしくなっていたのだろうか?
何を食べたのだろう?

2023-05-18
よく見ると死後数日は経っている。サツマイモをかじって間もなく死んだようだ。
サツマイモに毒はないから、死因は何だろう?

死んだことで、芋が食われる心配は少し減ったが、彼一人ということはあり得ず、多数の親兄弟が付近にいるだろう。


2023年5月21日日曜日

谷中墓地14 芋坂、聖公会の墓、菊見せんべい

2023年の黄金週間は、どこにも出かけず庭の野菜を眺めて過ごし、連休中に二人の客人を迎え、久しぶりに谷中墓地を散歩した。

一人目の駒野宏人氏との散歩は書いた。

20230520 谷中墓地13 東大新光社と牧野富太郎、朝倉文夫

二人目の客人は40歳も若い石合崇人君である。
弘前大学医学部の大学院生で、東京・西巣鴨の実家に帰省中、会うことになった。
彼は埼玉の薬科大学に通学しているころ、ニューシャトルの車中で国家試験の参考書の代わりに司馬遼太郎を読んでいた。今どきの学生にしては珍しいので声をかけた。話すうちに実家の菩提寺が千駄木の連光寺とのことで親しくなる。そのうちこのブログの読者となりメールのやりとりが始まり、昨年私が青森に行ったとき、弘前城を案内してくれた。

5月4日、日暮里駅改札口で12:00に待ち合わせ、東口のニュートーキョーに行った。店名と言い、シャンデリアと布張りソファーといい、昭和の喫茶店である。二人ともハンバーグと生姜焼きが乗ったランチを食べた。
(写真を撮ったが載せない)

食後は、芋坂を上がるべく、駅前から南に歩いた。
説明することがいくらでもある。
左に見えるホテル・ラングウッドは吉村昭の実家の工場の跡地だよ。
この歩いている道は明治まで音無川が流れていたから、そこの善性寺の前に石の欄干が残っているよ。
羽二重団子は子規、漱石、鴎外、などいろんな人の文章に出てくるよ。この店は10年くらい前に入ったときは、もっと広くて店内から中庭が見えて趣があったんだけどな。角の石柱を見てごらん、正面に「王子街道」、右側面に「右 いも坂みち」、左側面に「左 根ぎしみち」、と書いてある。
おうじみちというからには音無川が石神井川と別れたところから続いているんだろうな。
根岸の子規庵はすぐそばだけど、このまま芋坂を上がって、谷中墓地に行こう。
芋坂はいまは跨線橋に名前が残るだけだけど、昔はこんなに線路が多くなくて、一本か二本だから踏切とちゃんとした坂道があった。鴎外は馬に乗って千駄木から団子を買いに来たらしい。

一方的にしゃべっていたが、この坂道という言葉に石合君は反応した。
彼は「坂の上の雲」が好きらしい。
「あの坂はどこでしょう?」
秋山真之が戦後、子規庵を訪ねて、その足で田端・大龍寺の子規の墓に向かったときの上り坂のことだな。
東の根岸と西の大龍寺の間には南北に細長い上野・谷中台地・道灌山の尾根がある。どこかで坂を上って下らなくてはならない。たぶん、坂の西麓の六阿弥陀道を通った子規の葬列と同じ道すじだろう。当時の上り坂は南から御隠殿坂、芋坂、紅葉坂、御殿坂、諏訪坂(西日暮里駅)、不動坂(田端駅南口)がある。不動坂は北過ぎて六阿弥陀道を通らない。諏訪坂は坂の向きが北から南へ斜めに上がるから使わない。御隠殿坂、芋坂、紅葉坂は子規庵から近いけど、上がると谷中墓地に入ってしまう。だから秋山が見上げた坂は、たぶん御殿坂ではなかろうか。日暮里駅北口から本行寺の前を通る坂である。

そんな話をしたので、一番南の御隠殿坂から見ていくことにした。
芋坂から墓地に入り、正面にスカイツリー、左に線路を見下ろす崖に沿って南に歩いていくと、新しい墓石が整然と並ぶ区画に出くわした。
新規分譲もなく、あまり変化のなかった谷中霊園にあって、これは珍しい。
2023‐05‐04 13:21
よく見ると同じ形ですべてに十字架がある。
はて。
すぐ横に大きな墓があり、日本聖公会会員之墓という石柱がたっている。
この墓は昔から知っている。
大きくて目立つから、ここを歩くときいつも見ていた。
すると、この一帯は聖公会が広く持っていて、ごく最近、会員に分けたということだろうか? そんなことができるのだろうか? あるいは、各墓地は昔から会ではなく会員が持っていて彼ら個人が一斉に墓石を新しくしたのだろうか?
13:21
日本聖公会は、宗教改革のときイングランドで生まれた英国国教会の日本版。カトリックとプロテスタントの中間とされる。国内に279の教会を持ち、信者は約48,500人、日本のキリスト教徒全体の約5%を占める。立教大学、聖路加国際病院は聖公会の関連団体である。

聖公会から目を反対の西側に転ずれば、寛永寺が田安家墓所を整理して大々的な霊園を分譲し始めたし、谷中墓地もここへきて変わり始めている。

御隠殿坂をみて、渋沢栄一の墓所に来た。
ずっと工事していた渋沢家の墓の西半分には、小さな公園が完成していた。
そのあと平櫛田中旧宅の裏を通って、一橋家の前を過ぎ、高松松平家の墓所に行くと、すっかり移転した後の空き地になっている。谷中墓地もどんどん変わっていく。

石合君は谷中墓地が初めてというので、定番の徳川慶喜の墓地をみて、息子たちの徳川誠、厚、勝精、をちらりと見て、塀に囲まれた津山松平家墓所を過ぎ、渋沢栄一墓所に戻ってきた。
13:46
渋沢家墓所が縮小するとき、中央にあったタブノキが公園側に移動した。
その時の様子がパネルになっていた。

通り道に福山藩阿部家の墓所があったので覗く。
阿部家で一番有名なのは激動の幕末に老中首座を務めた阿部正弘であろう。
以前来たときは、じっくり見ず、正弘の正室、継室の墓だけ見て帰った。
(要するに墓石に戒名があっても分からないが、阿部伊勢守正弘室と目立つところに彫ってあった)。今回は正弘の墓を探す。
13:48
大きな墓石に目をつけ裏を見たら、
備後福山城主
侍従伊勢守
従四位下阿部
朝臣正弘墓
と彫ってあった。

13:50
こちらは、
故備後福山城主従五位下伊予守阿部朝臣正寧墓
とある。正弘の兄。6代藩主であったが病弱だったため、正弘に藩主(7代)の座を譲った。

このあと、青山胤道の前から田安家、清水家墓所、伊予の伊達宗城の墓を見て、交番前に出た。石合君は「胡蝶の夢」を読んでいるので、ちょうど交番のそばにある陸軍軍医総監・石黒忠悳や佐藤尚中の墓を教えた。そのあと数日前に駒野と見た、東大千人塚、牧野富太郎をみて、順天堂大学創始者佐藤泰然、松本家の墓を見て、墓地の外に出た。

ちょうど御殿坂中腹に降りたので、石合君は「坂の上の雲」を思いながら写真を撮った。
坂の上の右側、本行寺は幕末の外国奉行・永井尚志の墓があるが、立ち寄る時間もないので素通り。
経王寺も門の木戸の、上野戦争の弾痕を見ただけで素通り。
連休で混む谷中銀座をすり抜け、よみせ通りに出た。
ここは漱石の「三四郎」、鴎外の「青年」などに出てくる愛染川(谷田川)の暗渠道だよ。

暗渠道が三崎坂下すなわち団子坂下にくると菊見せんべい。
14:34
ここも明治時代から有名だと、菊人形の話をした。
すると彼は実家へのお土産としてせんべいを買った。
私は買ったことがない。

このあと千駄木菜園に来て一緒にイチゴを収穫して食べ、おしゃべりしながらお茶を飲んだ。終活で何度も捨てている蔵書を持って行っていいよというと遠慮しながら仏教関連と三浦綾子など何冊か選んだ。

4時をすぎて菩提寺の連光寺に寄って都営地下鉄白山から帰るというので、トウの立ったサニーレタスを無理やり3つ持っていってもらった。

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2023年5月20日土曜日

谷中墓地13 東大新光社と牧野富太郎、朝倉文夫

2023年の黄金週間は、3年ぶりのコロナによる行動制限なしということで、にぎわう行楽地のニュースが流れていた。しかし私はどこにも出かけず、二人の客人と、久しぶりに東大、千駄木、谷中墓地を散歩した。

一人目は駒野宏人氏。

コロナワクチンに関し政府、専門家会議はいくつかの重要な事実を隠ぺいしている。それをマスコミも報じないことに危機感を持ち、盛岡で啓蒙活動している彼が上京、赤門前で落ち合った。

2023‐05‐01 12:27 中央食堂
昼食を懐かしい生協で食べようと思ったが、中央食堂は行列ができていてパス。
法文2号館地下の銀杏、メトロも混雑していた。
連休の最中でも大学はやっていて、皆来ていることに感心した。

いっぽう、向かいの購買部は閑散としていた。
46年前、オーディオ、家電製品などが並び、私も机、スチール本棚、ガス炊飯器を買ったが、いまは取扱商品もPCなどに代わり、人もいなかった。いまの学生は生協で買わず、ネットなどで買うのかな。
12:31 新光社
学会発表のスライドを作ってもらった新光社が今の時代生き残っていることに驚いた。
こちらも誰もいない。
家賃の高い学外にあったらとうに閉店していただろう。

ぶらぶら第2食堂に行くと空いていた。
私は鳥竜田揚げ丼、彼は7色野菜カレー。

そのあと、いろんな話をしながら農学部から出て日本医大裏から千駄木の高級住宅街に入った。ここから我が家への道筋は漱石旧居跡、千明邸、大田邸、朝倉響子、鴎外旧居跡、団子坂上をすぎて島薗邸、安田邸、さらに(屋敷はないが)宮本百合子、津山藩・松平康民子爵、高村光太郎、山崎朝雲らの旧居跡を通るから、私はバスガイドのように休む間もなく講釈し続けた。

彼は千駄木、保健所通りの家並みをみて私の家がずいぶん立派だと勘違いした。しかし、我が家は草の生えた未舗装の裏道に入り、表通りの高級感はまったくない。
高級感はないが、自慢の千駄木菜園をみせた。大量に育ち、処分に困っていたサニーレタスを3つとったが、リュックに入らないと1つしか持って行ってくれなかった。

別れるとき、彼は前日、練馬区立牧野記念庭園に行ってきたという。
NHKの朝ドラ「らんまん」を見ているらしい。
谷中墓地に墓があると教えると、ぜひ行きたいというので、帰りに立ちよることにした。
途中、谷中銀座は日本人だけでなく外人観光客もいっぱい。大した場所ではないのに、なんでも実物以上に魅力的に大げさに書くガイドブックやテレビに騙され、みな押し寄せるが、内心がっかりして二度と来ることはないだろう、と話しながら、人込みをすり抜けて谷中墓地に到着。

さて、実は牧野の墓は行ったことがない。
ただ、天王寺の前から南にまっすぐ続く墓地のメインストリートの脇の足元に、「牧野富太郎墓所入口」という小さな石柱があり、10年以上前から何度も目にしていた。だから大体の場所は知っている。いつでも行けると思って、墓石まで行ったことがなかったのである。ここは有名人がいっぱいいるから、なかなか機会がない。

墓地内部に入っていくと、かつて訪ねた東大医学部の千人塚や、古河の殿様・土井家の墓がある。しかし牧野の墓は見つからない。

うろうろいていると朝倉文夫の墓に出くわした。
こうやって予期せぬものに出会うのは楽しい。
15:43 朝倉文夫夫妻之墓
場所は墓地の西北の端に近く、ちょうど自宅(現・朝倉彫塑館)が見える位置にある。
区画は広い。墓石、敷石の配置もよくある左右対称ではなく、芸術的である。
本人(1883-1964)の遺言だったのか、あるいは遺族、例えば娘さんの彫刻家・朝倉響子氏(1925- 2016)らのデザインだったのか。
このあたりは東京都ではなくて天王寺の管理であるが、それにしても、昭和39年にこれだけの敷地が取れたとは意外だった。

結局、牧野の墓は探し出せず、掃除されていた管理人の方に聞くとすぐ教えてくれた。
そういえば、東京都公園協会でここの墓地管理人を募集していたな、しかし2回も(雑司が谷霊園だったが)書類選考で落ちたから、応募しても無理だな、
などと思いながら千人塚の東側を北に入っていくと、あった。
15:46 結網学人 牧野富太郎
ケツモウガクトと読む。結網は牧野の号。
墓誌の一番新しい人の没年は令和四年(九十五才)であった。
15:46
墓石の裏に簡単な年譜があって、
朝比奈泰彦 謹書 とあった。
私の出身教室、東大生薬学教室の二代目教授である。
朝比奈(1881-1975)は初代・下山順一郎の後をつぎ、講座を主宰した。植物化学を専門とし、二度ノーベル化学賞の候補となったが、牧野との交流はどういうものだったのだろう?

谷中墓地は案内したい有名人の墓がいっぱいあるのだが、この日、彼は新幹線で盛岡へ、私は夕方から都立松原高校で薬物乱用防止講演がある。そのため他は何も見ず、日暮里駅に急ぎ、改札を入って別れた。
(続く)


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2023年5月3日水曜日

教場ロケ地、日大文理学部の一号館に入ってみた


昔からクイズ番組が好きだった。
しかし近年はタレントが回答するバラエティ番組となり、問題もくだらない。

そこで、代わりに、ドラマで出てくる場所(ロケ地)を当てるという「クイズ」を自分一人で勝手にやっている。
都内の坂道や踏切、神社、建物、商店街など近場から地方有名観光地まで、すなわち、行ったことのある場所から、映像でしか知らない場所まで、割と知っているほうだと思う。

退職してから、見たくもないテレビを見ている。
4月24日の月9ドラマ、木村拓哉主演の『風間公親-教場0-』もみた。

あらすじ:愁明医科大学の法医学研究室の教授(佐々木蔵之介)は、次期医学科長に決まる。そんな矢先、服毒自殺を図った遺体の司法解剖を依頼された。彼は助教に胃の切開を頼むが、助教はマスクを付けずに胃内の青酸ガスを吸い、数日間寝込んだ。彼はこの不祥事を大学に報告すると教授に告げる。しかし教授は、自分の昇進に影響することを恐れ、助教を自殺に見せかけて青酸塩で殺害してしまう。

この愁明医科大学の校舎が戦前の鉄筋コンクリートの校舎だった。しかしどこだか分からない。瞬間的に現れ、消えてしまうエンドロールのロケ地一覧を必死に見て、その中に日大文理学部の文字を捉えた。

ちょうど一週間後すなわち翌週の月曜に、その近くの都立松原高校(定時制)で薬物乱用防止講演を頼まれていた。

2023‐05‐01 16:46
京王線下高井戸駅 西口の踏切。
大学に入ったころは代田橋、明大前とともになぜかよく聞いた駅だったが、降りるのは初めて。
駅前広場がなく商店街が賑やかで、いかにも都内の私鉄沿線らしい。
16:47
駅西口から斜めに続く商店街は日大通りという。
道路の幅が商店街にちょうど良い。
事前にネットで見ると日大文理学部の資料館が17時まで開いているようなので急いで歩いた。

16:53
速足で入門、まっしぐらに資料館のある図書館棟に向かう。
間に合った。
見学は5分もあれば十分。

しかし休館。なぜだ!?
どうも黄金週間中は、休校らしい。
どうりで正門もキャンパス内も学生がいないわけだ。

敷地が隣接する松原高校には17:30に行けばいいのでまだ時間がある。
17:01
本館、一号館のほうに行ってみよう。

本館とあるから古いと思ったら新しい。
全体的に1号館以外、すべて新しい。
17:03
キャンパス内のシンボル、今回の目的でもある文理学部一号館が開いているので図書館側の入口から入ってみた。
懐かしい感じ。
一号館は昭和12年、1937年に竣工した。
神奈川県庁本庁舎(1928)と似ているが、同じ設計事務所である。

日大は、1889年(明治22)の日本法律学校を起源とする。
1920(大正9)に大学令による大学となった。日大に進学する学生のために予科があり、予科は文科(神田三崎町)、理科(駿河台)に分かれていた。理科はのちに甲類(工学、世田谷)、乙類(医科、板橋)、丙類(農科、藤沢)に分かれる。

さて、日大は1935年、ここ世田谷に土地を購入。建物完成を待って予科文科が移転。
2年後の1939年には予科理科も神田から移転、このキャンパスを日本大学予科と改称した。

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階段をどんどん上がっていく

ちなみに、1937年は、この文理学部1号館竣工(12月)に先立って3月、板橋に医学科校舎(現医学部本館)が竣工した。日大医学部40年史によれば、4月13日、学生600人が駿河台校舎前に整列、ゲートルで足固めをし、鉄砲を担ぎ、萌黄色の校旗を先頭に4列隊伍で、医学科歌を大合唱して板橋まで徒歩行進したらしい。世田谷への移転もこのようなものであったのではあるまいか。

17:06
5階建ての4階、5階は中央を塔にしたようなデザインなので、50人くらい座れる教室が一つだけ配置されている。
5階の教室には学生が2,3人いておしゃべりしていた。
西に見える塔は蘆花公園そばの世田谷区千歳清掃工場であろう。

階段を下りてくる。
柱時計の振り子の窓は鏡になっていた。

17:07
正面入り口から出て振り返る。
近年、夜間や休日は校舎内に入れない大学が多いが、ここは非常にオープンだった。

17:08
テレビでみた構図でパチリ
守衛さんにあいさつして道路に出る。

日大文理学部
文理学部とは変わった名前だ。戦後、予科が東大のように教養部となり、1949年に法文学部文学科から独立した文学部が1958年教養部を吸収、文理学部とした。だから日大には文学部が存在しない。(もっとも今は従来の文学部がもっと実用的な名称に変更され減少傾向にある)

文理学部と聞いて思い出すのは、戦前の東京文理大学と広島文理大学である。
大学には文科と理科しかないのだから、両方ですべてを包含するなら、あえて書く必要もないのだが、東京には東京大学があったから、苦肉の策か。

東京文理大学は東京高等師範学校が大学令による大学昇格を目指したとき、高等師範卒業生を対象をした専門部を母体にした。だから文理大学は高等師範の付属のようなものであった。戦後、両者の後身である東京教育大(現筑波大)が国立一期校になったのは、文理大が大学令による大学であったからだ。しかし高等師範の教員のほうが立場が強かったから、校名が教育大学となったのである。

過去ブログ
20200524 智香寺の引っ越し、東京教育大と文理大
17:09
木村拓哉のドラマではこの門柱に「愁明医科大学」と書いてあった。

さて、まだ時間が15分ほどあるので、道路を挟んで正門の向かいにある日大百周年記念館に入ってみた。
17:10
根っこのようなオブジェがある

百周年記念館というのは、中はたいていホールや講堂になっているものだ。
しかしなにやらがやがや声がする。

17:12
戸が開いていたので覗くと高校生のような女子学生が集団創作ダンスの練習をしていた。
講堂ではなく、体育館だった。
まあ、世田谷だから講堂より学内学生の使用を優先した体育館のほうが理にかなっている。
あまり見ると変質者に思われるのですぐ退散した。
ロビーの椅子に座り、資料館入口からもらってきたパンフレットを眺めて少し休憩した。
17:21
帰り際、体育館のロビーの展示ケースにフジヤマの飛び魚・古橋広之進(1928‐2009)が顕彰されていた。彼が小学校時代に学童新記録をだしたとき、戦雲迫る時代の新聞は「浜名湖の豆魚雷」と異名をつけた。
1946年に日大進学。世界新記録を連発したが敗戦国日本は世界大会参加を認められず、記録も公認されなかった。ようやく1949年、世界選手権出場が認められ、400、800、1500で世界新記録で優勝。しかし初めて出場を許された1952年五輪、ヘルシンキでは最盛期を過ぎていたこと、2年前アメーバ赤痢にかかったことなどが響き、メダルは取れなかった。

1966年日大講師、1975~1998年日大教授。
1990年から1999年まではJOC会長を務めたから、長野オリンピック(1998)の誘致から開催まで、彼の顔はよくテレビに出た。

ちなみに日大水泳部同期(生年月日が4日違い)の橋爪四郎はつい先日亡くなった(2023年3月9日、94歳)。彼は11回も世界新記録を出し、日本が復帰した1952年ヘルシンキ五輪1500m自由形でも銀メダルをとったが、常に古橋の陰に隠れ、ここ日大でも目立っていない。

この日、古橋のパネルの下に並ぶ靴(写真)はダンスを練習していた彼女たちのものだろう。
かれらは日大の学生ではなく近隣の高校生が借りていたのかもしれないが、もう一度確かめる気はなかった。


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2023年4月30日日曜日

夏ミカンの花、甘夏とグレープフルーツ

 

2023-04-24
朝、玄関のドアを開けたとき、あるいは夕方帰宅して門に近づいたとき、かならず芳香に包まれる。4月の中旬から甘夏(カワノナツダイダイ)の花が咲いている。
今季(昨年秋以降)は大きな黄色い実が31個生り、壮観だった。
文京区の保護樹木だった巨大な桜よりも、近所の人から多く声を掛けられた。もっとも、1,2週間しかもたない桜と違い、たわわに実る姿が年をまたいで数か月にわたって見られたせいかもしれない。

昨季はわずかに2個だったが、南にあった桜を伐採して日当たりが良くなったからか? 
1月1日から数日おきに1つずつ収穫して今は3個だけ樹上にある。

夏ミカンというのは夏にできるものだと漠然と思っていた。しかし自分で作ってみて、秋にできたミカンが冬を越し初夏になっても鮮やかに木に残っている(そして出荷する)ことから名づけられたと初めて知った。それにしても花が咲くとき前年の実が生っている植物というのは珍しい。他に何があるだろう?

ところで夏ミカンの学名はシトラス・ナツダイダイ(Citrus natsudaidai)という。日本語のダイダイがそのまま学名になった。江戸時代中期に長門で栽培が始まったが、酸味が強くて食用ではなかった。しかし冬を越えて夏になると酸味が減り食べられることが分かり、萩では明治維新で職を失った長州藩士に栽培を奨励したという。このとき、士族たちは家が代々続くようにとダイダイと名付けたとか。クレヨンのだいだい色とは幼児から親しんだ言葉であったが、「代々」と書くとは知らなかった。(もちろん今、ダイダイイロと入れると橙色と変換される)。しかし明治期に上方に出荷するにあたり、大阪商人は名前をダイダイから夏蜜柑と変更したらしい。酸味が強いが、みかん類がなくなる春以降に食べられることから貴重だった。

甘夏は、昭和初期に大分津久見の川野豊氏がナツダイダイの枝変わりから選抜、育種したもの。カワノナツダイダイという。1950年に品種登録され1965年ごろからナツダイダイからの更新が進んだ。しかし、1971年のグレープフルーツ輸入自由化以降、栽培が減っている。

そうか、グレープフルーツは1975年、大学入学で上京したとき親戚で初めて食べたが、自由化の4年後であったか。赤道面で二分割し、ギザギザのついたスプーンで中袋をほじくって食べるのがハイカラに思えた。同時に上京した同じ年の従兄(彼は不合格で予備校に入学)のアパートを訪ねると、何か月も未使用のグレープフルーツ用スプーンが壁にぶら下がっていたことを思い出す。

ちなみにグレープフルーツは、99%以上輸入でその7割がアメリカ産だが、世界生産量は中国が46%を占め、アメリカ16%の3倍である(2011年)。

グレープフルーツは埼玉にいたころから生ごみを庭に捨てるといくらでも発芽していたが、実が生るまで育てたことはない。関東では育たないと思ったからだ。しかし温州ミカン(こちらは昨季64個、今季77個生った)につづき、甘夏も成功すると、グレープフルーツもやってみようかな、と少し思う。
しかし私の年齢を思うと、(試行錯誤が必要なら)間に合わないかもしれない。しかしそれ以前に狭い庭では植える場所がない。

その温州ミカンの花は、甘夏に1週間ほど遅れて満開となった。

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目を庭全体に転ずると、春も終わり。
カブはカブとして収穫できず、いまは柔らかいトウを摘んで食べている。
キャベツは成長中、そら豆は収穫待ち、大いに楽しんだスナップエンドウは終わりに近い。
そして大根。
2023‐04‐25
最後の三太郎大根を2本抜いた。
11月に種まきして、この時期でも食べられるというのは、さすがタキイが開発した「ときしらず」ダイコンである。しかし薹が伸びてきたので、さすがに心配になって抜いた。
葉を除き860グラム、1010グラム。大きさ十分、煮ると普通に食べられた。


(追記 2023-05-09)
夏ミカンがナツダイダイというなら、ダイダイという言葉、果物が先にあったことを示す。
ダイダイは江戸時代よりもっと昔に中国から渡来し、一つの株に(前年の実どころか)何代もの果実が生っていることから「代々」といったらしい。すると明治初期に「萩の士族が家が続くように・・・」という語源は怪しい。


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2023年4月19日水曜日

アブラムシの羽有り、羽なしは別種だろうか?

 

2023‐04‐14
捨てた種から成長したモモの葉が、油でぬれたようになっていた。
ひょっとして、と葉の裏をみると白っぽいアブラムシがびっしり。

アブラムシは植物の篩管液を吸い取る。しかし養分を消化しきれず、排泄液には糖分を含み、それがアリを呼び、また、葉をべたべたした液で濡らす。

アブラムシは小さい個体がびっしり群生する。手で簡単にすりつぶせるから、子供のころ、そのときの液がアブラムシのアブラだと思っていた。しかし、葉っぱが光るほど出る、この排泄液がアブラムシの語源であろう。
しかし、ウィキペディアほかネットには語源について書いてなく、かわりに関西の「アブラムシ」についての記述を見つけた。つまりゴキブリである。背中のきらきらした光沢からこの名が出たらしい。関西では関東でのアブラムシのことをアリマキというらしい。子供のころ、蟻巻きだと思っていたが、いまは蟻牧だと分かる。もっとも牧場というより、食事場という感じだが。
ソラマメとアブラムシ
新しいスマホは近づけて写せる。
今季、アブラムシが付いたのはモモ、ホウレンソウ、キャベツ苗、ソラマメだった。ジャガイモ、春菊、イチゴはつかなかった。サニーレタスはついていないが、昨年、黒いものが付いた。

アブラムシは色は緑、黒、白っぽいものがあり、形も手足が目立たずびっしりついているもの、手足のはっきりしているもの、羽のあるものなど、いろいろある。それが生物種の違いなのか、一つの種類が、変態しているのか、よく分からない。

2023‐04‐14
こちらは羽と手足がはっきりしている。
ホウレンソウやキャベツ苗の葉の下にはアブラムシの死骸なのか脱皮した皮なのか、残骸がいっぱい散らばっていたが、そら豆の下にはない。

アブラムシはカメムシ目の下に、
・アブラムシ科 Aphidida
・カサアブラムシ科 Adelgidae
・ネアブラムシ科 Phylloxeridae
と、3つの科があり、このうちアブラムシ科の下には4つの属がある。
畑にいるのは、アブラムシ科Aphis属のワタアブラムシだろうか。

ウィキペディアには、
「アブラムシは1世代が10日程度の発育スピードであり、年の大部分はメスだけが出現し単性生殖する。ワタアブラムシは、ムクゲやミカンなどの樹上で卵越冬し、4月上旬に孵化して新葉に寄生し無翊胎生雌虫に成長する。5月上旬には羽のついた有翊胎生雌虫が現れ、ザクロなどの中間宿主へと移動する。その後もナスやキュウリなどの2次中間宿主を経て、10月下旬から有翊のオスが現れ、有翊のメスと交尾し、ムクゲなどに戻って産卵する。また、温暖地では無翊胎生雌虫のまま越冬する例も報告されている。」
と書いてある。

単為生殖(無翊、有翊)有性生殖とも、増殖は産卵、孵化、幼虫、成虫、産卵となるはずだが、このサイクルが10日ということだろうか?
無翊胎生雌虫が変態して有翊胎生雌虫になるのだろうか?
また、時期によって同一種でも幼虫から成虫になったときに無翊あるいは有翊となるのだろうか?
ホウレンソウ、キャベツの葉の下に大量に落ちていた残骸は、寿命の尽きたアブラムシの死骸だろうか?

よく分からない。
他のサイトはこれのコピペばかりであり、ネット時代の情報の氾濫と質の低下を感じさせた。
企業の研究所にいた時ならちゃんと調べたが、教員になってからは、そういう必要はなくなり、定年退職してからはすっかり調査する習慣がなくなった。
調べなくなったのは、必要がなくなったからか、老化による調査意欲が低下したからか。

さて、今回4月初めにソラマメで見たのは5月上旬出現と書いてある有翊胎生雌虫のようだが、やはり今年の春は異常に暖かいのだろう。

我が家の庭にはアブラムシはいなかった気がする。
最初に気づいたのは6年前の2017年春のキャベツ苗とフキであったような気がする。
しかしその後も大した被害はなく、昨年もホウレンソウにアブラムシはいなかったのに、今年は大発生した。
まあ、仕方がない。
諦めて他の野菜を見る。
2023‐04‐14
春になってもトウが立にくいという三太郎大根もトウがたってきた。

2023‐04‐14
抜いて葉っぱを除くと、30センチ、860グラム。
宮重は1200グラムくらいだったから少し小さいが、この時期に食べられるのは貴重である。
2023‐04‐12
この二日前に地中保存していた宮重大根、聖護院大根を掘り出した。3月4日に埋めたから40日近く前のもの。見た目はOK.
しかし豚バラ肉と煮たら、三太郎は柔らかだったが、宮重、聖護院は筋が固かった。来年は聖護院は作らない。そして宮重は2月中に食べきり、それ以降は三太郎にする。

芽出し中のサツマイモを覗くと、紅はるかから芽が4つ出ていた。
暖かい春と、黒マルチ、ビニール保温のせいか、発芽は1か月以上早い。
いっぽう、水に漬けて発芽を試みていたサツマイモはカビが生えて、しかも発芽していない。
水漬け発芽の里芋(上)とサツマイモ

2023‐04‐14
発芽している紅はるか(手前、右)。
左は水漬け発芽をやめ、地中に埋めた紅はるか。
奥にみえるシルクスイーツ、紅あずまはまだ発芽していない。