2022年10月4日火曜日

京成線の車窓、青砥駅と高砂駅のホーム

東京の東部には土地勘がない。

高校を出て上京したころ、叔父叔母は座間、綱島、南浦和にいたから小田急、東横、京浜東北線は親しみがあった。
就職してからは職場も住まいも大宮周辺の埼玉となった。都内に出る時は上野、池袋、新宿、渋谷であり、東は縁も用事もなかった。

千駄木に来てからもせいぜい浅草、ダンス競技会のある錦糸町くらいで、東は依然として未知の世界だった。

聞けば東京生まれの人も東はあまり行かないという。要するに千代田区、港区などのようにイベントなどの集客施設があるわけでもないから、ベッドタウンのように、住んでいる人しか知らない街ということだ。(むしろ千葉のほうまで行けば東京が遠くなるから集客施設が増える。)

さて、退職後のアルバイトとして葛飾柴又の市民農園に行くことになった。
町屋あるいは日暮里から京成線に乗る。
2022-03-05 8:30
千代田線から乗り換えるときは、町屋駅。


京成線の下を都電が通る

京成線は成田空港までは10年ほど前まで年一回くらい行っていたが、特急は途中を素通りしてしまう。各駅停車というのは、ほとんど初めてで(柴又帝釈天に一度行った)、車窓の景色は新鮮だった。
ほとんど高架あるいは土手を走るから、家々がよく見える。
全くおしゃれな建物がなく、普段着の家並みが続いている。

8:33
荒川区町屋を出て隅田川をわたると足立区

川を渡るとほんの少し、地上におりて踏切があるが、町屋の次の千住大橋駅は再び高架となる。

千住大橋駅をすぎる

日暮里を出て高架の区間が多いのはなぜか?
京成電車は、明治通り、都電、隅田川、国道4号、常磐線、東武伊勢崎線、荒川、国道6号、環7通り、中川、と放射状に出る線路、幹線道路、そして川を越えなければならない。これは理由ではなかったかもしれないが、結果的に高架にすることで便利になっている。この沿線事情は総武線などと似ている。つまり西武線や東武東上線のように線路自体が放射状に延び、川や他線と交わりの少ない路線と違う。

次の京成関谷は東武伊勢崎線牛田駅と近く、乗ってくるひとがいる。
京成関谷を過ぎ、荒川を渡る。
ここは明治に計画され、大正から昭和の17年をかけて掘削された大きな放水路である。1965年に正式に荒川の本流とされ、分流点以降の旧荒川を隅田川とされたが、依然として旧荒川と区別するため荒川放水路と呼ばれていた。それでも最近の地図は単に「荒川」となっているのが多いかな。

荒川がはるか東に移動して、もう少し経つと荒川区とか荒川小学校(北区東十条)の語源が分からない人も増えるだろう。(ダンス練習場「富士学院」の前にある都内最古級の荒川小学校は、この2022年4月、十条台小学校と統合され、十条小学校となった。)

荒川を渡ると足立区から葛飾区に入る。
昨年はじめて自転車で走った墨田区はもっと南のほう。

やがて「堀切菖蒲園」。
次は「お花茶屋」。
きれいな駅名が続くが、車窓の景色は密集した住宅ばかりで、全く木々の緑がない。
もっとも、お花茶屋は八代将軍吉宗の時代に「お花」という娘がいた茶屋があったことより名づけられたそうだから、緑がなくとも仕方がない。

この二つの駅の間で線路は高架から地上に降りる。
家々はますます近くなる。
お花茶屋駅に停車
すぐ先は踏切。
お花茶屋は駅名だけでなく、住所としても駅の北に1~3丁目まである。

8:42
お花茶屋を出ると線路は再び高架となる。青砥駅手前で右から羽田空港にも通ずる押上線が合流する。
高架はかなり高く、5,6階建てほどあるのではなかろうか。これは中川を越えるためというより、押上線や特急待ち合わせ用の線路用地が確保できず、立体的にしたためだろう。
8:46 京成高砂着
路線図を見ると、高砂、青砥近辺は降りたことのない魅力的な駅名が満載。
東京西部を走る私鉄の、~が丘、~台といった文化も歴史も感じさせない軽い駅名と違い、一癖も二癖もあるような駅名が多い。

京成は本線が上野から成田までだが、青砥から分岐して押上線は、都営地下鉄浅草線、京急線で羽田や三浦半島三崎口までいくし、東は高砂から北総線が分岐し千葉ニュータウンを経て成田へ、また津田沼から分岐して千葉市方面にも行く。

京成電鉄は
1907年、押上―成田間の鉄道敷設免許を得て、
1909年(明治42年)京成電気軌道株式会社設立、
1911年 着工、
1912年 押上~江戸川間、曲金(現京成高砂)~柴又間開通

押上から都心、浅草への乗り入れは東武と競合し、東京市会議員に賄賂を贈った京成電車疑獄事件が発覚、浅草乗り入れは断念した。
(押上は隅田川の東、北十間川の北であるが、明治22年から南葛飾郡ではなく東京市本所区の北端だった。とはいえ、言問橋などもなく渡し船だった)

浅草をあきらめた後、都心への乗り入れを模索、日暮里~筑波に鉄道敷設免許を持っていた筑波高速度電気鉄道を東武との競合の末に1930年吸収合併。
1931年 青砥駅~日暮里駅 開業、
1933年(昭和8年) 地下軌道となった日暮里駅~上野公園駅(現・京成上野駅)開業。
今は上野~成田が本線となった。

・・・・・

2022年、アルバイトは通い始めて6か月、すっかり慣れた。
市民農園での菜園アドバイザーは楽しい。
東京都最低賃金の時給で一回3時間、一回行けば1日の食費を稼げる。年金生活者には十分な収入である。

週2回ほど通う京成線について、もう少し書く。
新たに写真も取った。

初めて青砥駅に着いたとき、その景色の良さに驚いた。
2022‐10‐01 12:28
青砥駅。 成田方面行ホーム。
すぐ目の前を中川が蛇行していく。
日暮里以東で一番の景色ではないか?
中川にかかる青砥橋
北側は特に面白くない。
何か見えるわけでもないが、ホームの高さがわかる。

12:29 高砂方面

青砥を出ると電車はだんだん高度を下げ、中川を渡ると地上に降りる。

12:32 高砂駅到着
ホームは地上にあり、すぐ先は踏切。
これが特急停車駅とはどうしても思えない。

12:34 高砂駅北口広場
広場と言えるかどうか? ポストがあるくらい。
たまにタクシーが1台入るくらい。
駅前らしく道路の向こうに交番と不二家があった。

北口広場全景
高さ制限2.7メートル、一般車両進入禁止。

12:35
駅前の道路に信号がないが、開かずの踏切のため、いつも簡単に渡れる。
振り返ってもう一度、高砂駅前の道路もあわせた広場の「全景」。

ちょうど成田へゆくスカイライナーが通過した。
ほとんど乗っていない。乗客は外国に思いをはせ、窓の外の葛飾区などに興味はないだろう。

駅を背に職場に向かう。
左手の清水屋の日替わり定食480円は、質、量ちゃんとしていてお得。
家のそばの不忍通りのランチは800円から1200円、ここの営業努力に頭が下がる。

12:37
駅の景色が他の小さな駅とまったく変わらない高砂が特急停車駅になっているのは、柴又金町線(写真、右の高架)と北総線(スカイアクセス線)の分岐点になっているからか。
高砂の一番の名所はイトーヨーカ堂かな(左)。

12:37
京成の車両基地もあるが、これは特急停車の理由にはならないだろう。
特急すらも追い抜くスカイライナーをやり過ごすためかなと考えていたら、さすが開かずの踏切、警報が鳴り慌てて出た。

(つづく)

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2022年9月20日火曜日

スズメバチ巣の駆除、分解して女王バチを探す

2022-09-18 
前の道路に出て、何気なく生垣にまとわりつく烏瓜のつるをとっていたら、目の真ん前にスズメバチの巣があった。顔から巣までほんの50センチくらい。びっくりして離れた。

何も知らず、からまったつるを取るのに巣のついた枝をゆすっていたから、ぞっとした。攻撃的で知られるスズメハチは幸い私に向かって蜂起せず、数匹が巣に出入りしているだけだった。この日は台風が近づき、朝から断続的な雨、その合間で活動が低下していたのかもしれない。

何とかいい写真を撮りたいと近づくが、やはり怖い。

庭のほうに回ると全貌が見えた。
見事なマーブル模様。
何で今まで気が付かなかったのだろう?

ハチによる死者数
http://www2u.biglobe.ne.jp/~vespa/menu.htm
一部アシナガバチによる死者も含まれるが、ほとんどがスズメバチ。

スズメバチによる死者は最近は10~20人だが1984年は全国で73人、2000年以前は毎年30~40人が死んでいた。これはクマや犬に襲われた死者より圧倒的に多く、動物による死因では最大のものである。

はて、どうしよう?
左のキンモクセイの枝の中に巣が見える。

ここは通学路に当たり、小学生でも手が届く場所にある。
死傷者が出た場合、私の責任になるのかな?

2016年、長野県飯島町で橋を渡っていた女性がスズメバチに刺され大けがしたとき、女性は140万円の治療費、慰謝料を町に請求し、武蔵野簡易裁判所は町に51万円の賠償を求めた。
これが民有地にあっても民法717条に定める「設置・保存の瑕疵」が適用されるらしい。

木の枝が落下して通行人にけがをさせたというなら、まあ所有者の責任になるだろうが、ハチの被害まで私の責任になるとは、可哀そうではないか?
「予見可能性」というものが問題になるらしいから、すぐ私の責任になるわけではなさそうだが、発見してしまった以上、放っておくと「予見可能性」があったことになり、賠償責任が出そうである。

駆除費用の相場は、1万円~5万円らしい(難易度、巣の場所によって異なる)。

ひょっとして、と思い「文京区、スズメバチ」で検索したら、区が駆除してくれるようだ。
良かった~。
文京区に来たのは子供たちが高校を終えてからだから、高い住民税のわりに世話にならなかったが(あ、サクラ保護樹木があった、ハクビシンも)、今回、区民として恩恵をうる。
しかし連休中、窓口は休み。メールだけ入れておいた。

ちなみに、よく見るハニカム構造が露出したアシナガバチの巣は、文京区で面倒は見てくれず、自分で撤去しなければならないようだ。この蜂はそれほど危険でなく、その巣は埼玉の家にもできたし、子どものころ信州では見つけると中のハチの子を炒って食べた。
2022‐09‐19
翌日、雨が一時的に上がったので写真を撮りに行くと、ハチが1か所しかない出入り口から顔を出していた。
ここで、ふっと、駆除するのはもったいない気がしてきた。
もっと大きくしたい。
連絡したのは早まったかな?

スズメバチの巣は4~5月ごろからでき始め(逆さフラスコ型)、7~9月にかけて球形になり、10,11月で最大になるらしい。冬になると働きバチはすべて死に、次の年の女王バチだけが越冬する。そして翌年巣は捨てられ再利用されることはない。つまり、冬になったら手で取れる。そして田舎のドライブインのように、記念品として飾ることもできる。

しかし今から、「やっぱり巣はありませんでした」とか、「業者に頼んで取ってもらった」とか、嘘をつくのもな~。それこそ通行人に被害が出たとき、こちらが不利になる。

と思っていたら、さっそく連休明け、本日8時半過ぎに区役所から電話がかかってきてた。
ちょうどこの日は業者が回っている日だという。9時半に行けるというので頼んでしまった。

2022‐09‐20 9:39
早速業者がいらした。
今の季節はとくに多いという。文京区だけで週2日、一日3件、駆除しているとか。
意外と多いが、すぐ来てくれたことから、毎回3件はないかもしれない。

取った巣は記念に欲しいというと、崩れるから駄目だとおっしゃる。
彼は巣の穴にスプレー缶のノズルを突っ込み薬剤を注入した。
数匹のハチが乱舞する中、レジ袋を下からかぶせ、巣を削り落とした。
場所が手の届くところにあるということもあるが、テレビでよくやるスズメバチ駆除とは違って、あっという間に終わり、拍子抜けするほど軽作業だった。

彼は巣を入れたレジ袋の口をしっかり閉じ、道具と一緒に箱に入れて持ち帰ろうとされるので、改めて欲しいと言って、置いて行ってもらった。

巣は、けっこう重かった。
ふと、この中には幼虫がびっしりいることに気が付いた。
中で腐ったら記念品として飾れないではないか。
捨てるしかないか。

こうなったら分解しよう。
3時間後、薬剤噴霧されたとはいえ、恐る恐る袋を開けてみた。
ハチは死んでいた。
12:37
移植ごての赤い部分が20センチ
狭義のハチの巣(幼虫のいるハニカム構造)は二層構造になっていて、それをマーブル模様の外壁が覆っている。

巣の外壁は直径20センチほど
改めてじっくりみる。

日本にいるスズメバチは16種類という。地中や樹洞に巣を作るオオスズメバチ、信州などで幼虫が缶詰にされるクロスズメバチが有名。
市街地に営巣するのはキイロスズメバチとコガタスズメバチ。
これはどうもキイロスズメバチのようだ。

ちなみに大平洋戦争で日本海軍と戦った米軍空母のWasp、Hornetはスズメバチの意味である。ミツバチは(honey) beeという。

さて、内部の巣をよく見ると、幼虫は様々な大きさがあり、うんと小さいものも穴の奥にいる。
また、膜のふたで覆われている穴には成虫寸前の、手足のはっきりした蛹が入っていた。
つまり、ハチは一斉に産卵されるわけではなく、何回かに分けて産卵、育児される。
調べたら、働きバチは3週間ほどで死んでしまうが、次々と羽化して、餌を集めて育児に従事するらしい。

これらを生んだ女王バチはどこにいるのだろう?

ざっと探したが分からなかった。
キイロスズメバチは女王蜂25-30mm, 働き蜂18-25mm, 雄蜂26-28mmという。
これは微妙な差だ。そこですべて、紙の上に並べてみた。

13:19
巣の中で死んでいた成虫は全部で47匹。
右上のものがわずかに他より大きくて女王バチっぽい。
その下の2匹は交尾しているような格好で死んでいたが、大きさは働きバチである。

右下には生育ステージの違う幼虫とさなぎを並べてみた。
信州を離れて47年、薬剤が噴霧されていないとしても、気持ち悪くて食べる気はしない。

それにしても、ハチの巣の分解など、この年齢になって経験するとは思わなかった。
退職老人らしい一日。

2022年9月13日火曜日

ハダニと芋虫

2022-09-11 9:36
ハダニで葉が白っぽくなったナス
それでも4株で92個収穫した(9/13現在)

初めてこの庭でハダニを見たのは2020年春。
2019年秋にペピーノなどピーマン類を室内越冬させたときハダニがつき、翌春庭に植えたらナスなどに伝染した。
(本当はそれ以前からあったのかもしれないが、この時初めて気がついた)
以後毎年出るが、放置している。

消毒しないのは、有機農法信奉者のように、農薬が嫌いだからではない。
生きている虫にも、食べ物を分けてあげようという優しさからでもない。
ただ単に面倒くさいからだった。

しかし今回は少し問題が出た。
9:40 白菜
それは近くの白菜の苗が全滅したこと。
種まきが早すぎて暑さで枯れたのかと思ったが、よく見たらハダニがいた。

そこで消毒することにした。
家にあるマラソンの瓶を見れば、白菜、ナス類のハダニに有効とある。
噴霧したが効かなかった。
2016年に買ったものだから失活しているのかもしれないと、新たに買ったがやはり効かない。
スミチオン(10年以上前のもの)も効かなかった。
薬剤耐性のハダニだろうか?

過去のブログを見たら2年前、ハダニにスミチオンもマラソンも試して無効と記録してあった。
私の脳は、もう経験したことが残らなくなってしまったのだろうか?
大根
こちらは発芽率100%なのだが、根切り虫のような何者かに土に近い茎を食べられ、朝になると倒れている。
そのたびに種を追加でまき、欠損部を補充する。

人参
こちらはまだ虫害が目立たないが、サツマイモが栽培域を侵食し始めている。

サツマイモが家を飲み込むかのように繁茂している。
6月7日から7月11日まで一か月以上にわたり紅あずま26本、シルクスイーツ39本、不明46本。合計なんと111本もうえてしまった。
植えつけてから収穫まで130日というと、あと1か月半。

これでは歩くところすらなくなる。
そこで芋のつるを水平でなく上に伸ばそうと、一部は支柱をたて立体的にした。

サツマイモは不思議と青虫やハダニがつかない。
しかしよく見れば葉っぱがかなり食われている。
それでも虫は見えない。
芋虫(エビガラスズメ幼虫)は夜行性なのである。
そこで夜、見に行ったら2匹いた。実際はこの何十倍もいるのだろう。

葉っぱの陰で見つけると、恐怖を感じるほど大きくて気持ち悪い。
大蛇を思わせる太さと模様と重量感。
さすがの私も潰して殺すことはできない。
瓶に入れて太陽熱で殺すこととした。
二匹ばかり処分しても仕方がないのだが。

別ブログ

2022年9月5日月曜日

私と薬学9東大医学部薬理学教室の教育

(前回からの続き)

1987年4月、研究生として東大医学部薬理学教室、遠藤研に通うことになる。
私は30歳、長女が8か月、尾山台団地の最寄り駅、東大宮から東北線(現宇都宮線)で上野まで35分。毎日上野公園を歩いて通学した。

医学部の基礎系の研究室はどこも人がいないものだが、遠藤研も3月に松村さんが転出され、遠藤實先生と飯野正光先生、実験助手の飯田さんの3人だけだった。

その状態で、昭和大薬学部の修士を終えられた小山田英人さん、臨床医だった月岡道隆さんも私同様研究生として入室、また秋葉俊彦さんも理学部物理学教室(若林研)に籍を置いたまま遠藤研で実験することになった。
すなわち3人以外は全員、新人であった。遠藤、飯野両先生は、ゼロから始める私たち4人に対し、実に丁寧な教育をしてくださった。
まず、カエル骨格筋の単一筋線維、すなわち単一細胞を取り出す訓練。
実体顕微鏡で見ながら、ピンセットと眼科ばさみで脚の筋肉を縦に割るように切っていく。つまり筋肉、すなわち筋線維の束を2分の1、4分の1、8分の1、と一太刀ごとに細くしていく。筋線維が数十本くらいまで減ったら、今度は貝印カミソリを小さく割った破片をナイフにして、さらに線維(筋細胞)の束を細くしていく。細胞は少しでも触れたら傷つき死んでしまうから慎重に進めるが、朝から始めて夕方、筋細胞があと数本となったときに傷つけてしまう。

5月22日、20回目で初めて最後の一本まで到達、すなわち単一筋線維ができたと思ったら、どこかでナイフが触ってしまったのか翌朝顕微鏡で覗くと真っ白になって死んでいた。
翌5月23日も成功して電気刺激に反応したが、48時間後は死んでいた。
このころは腕も上がり3時間くらいで単一筋線維まで到達するようになっていたが、その後2回試みても最後の1本にするところで傷つけた。

しかし長い間じっと我慢していらしたのか、飯野先生は「待ってました」と、この訓練を卒業させてくれた。そして、次のステップ、すなわち取り出した筋線維の実験で使う溶液調製について教えてくださった。
溶液作りは、ただ粉を量って溶かすのではなく、そのまえに自分で計算しなくてはならなかった。細胞内液は、Caと結合し緩衝効果を示すEGTAのほか複数の高エネルギーリン酸化合物などキレート剤を多く含み、なおかつそれら化合物はpH によってイオン種の比率が変わってくる。それらとCa、Mgとの結合定数をいちいち調べ、さまざまな遊離Caイオン濃度、さまざまなpHについて必要な試薬量を計算するのだが、複雑な数式をいくつも書かねばならず、これも良い訓練だった。
1987年8月
左から小山田、上田、月岡、前が秋葉、小林

カエル単一筋線維取りに話を戻す。
それまでみんなで仲良く顕微鏡を覗きながら、おしゃべりしたり音楽聞いていたりしていた。(小山田さんは岡村孝子の「夢をあきらめないで」が好きだった)。しかし一人が成功すると雰囲気が変わる。気合を入れた月岡さんは私の卒業した翌日単一筋線維をとり、嬉々として溶液調製に加わってきた。
いっぽう一人残された小山田さんは無言で顕微鏡をのぞいていた。そして彼はこの日、徹夜して成功する。(しかし夜通し硬い椅子に座っていたのが祟ったか、その後、腰痛に悩まされることになる)

単一筋線維取りは手先の訓練とともに気合、メンタルの訓練でもあったようだ。
カエル骨格筋はその後使うことはなかったが、この経験は後年、実体顕微鏡下で心筋、平滑筋の標本をつくるうえで大いに役立った。


また、我々新人4人のためだけに輪読会が開かれた。
筋肉、神経など興奮性細胞の生理について厳選された論文を読む。Hodgkin, Rushton (1945)の神経軸索のケーブル理論から始まり、Hodgkin, Huxley, Katz の Constant field equation, フィードバック増幅器によるVoltage clamp(1951)、電位依存性の確率因子m,n,hの導入による透過性変化の数学的記述(1952)、骨格筋チャネル分子の動きを想像させるcharge movementの観測(Chandler, Rakowskiら1975)など。

我々は電気生理学すなわちパッチクランプの実験をするわけではないのだが、興奮性細胞を扱うからには膜電位の基本をきちんと身につけなくてはならないという教育的配慮だった。
土曜、生協で食事した後、13時くらいから始まり17時、18時まで、1つの論文を徹底的に読む。説明当番は秋葉・小山田・小林・月岡4人で順番に回ってきて、飯野先生が黙って聞いている。4人とも分からないと教えてくださった。どれも数式がびっしりの大論文で、物理、数学は好きだったが、当番の週は丸一日図書館にこもって準備した。これら論文には実験装置の説明でも細胞膜のモデルでも、電気回路がよく出てきた。だから、こちらも電気の本を2,3冊買って勉強した。

半分くらいは遠藤先生も顔を出されて、HodgikinやHuxley(先生のご留学先)らの人柄とか、ご自身が秋葉原で部品を買ってアンプを組み立てられた時代とか話してくださる。
Na電流、K電流の数式で(m^3)*h,  n^4と確率因子の積が「4次」になるところでは、
「半分冗談ですけど」と前置きされて、Naチャネル分子(前年沼研でクローニングされたばかり)の4回繰り返し構造、Kチャネルの4量体と関連付けて貴重な話をくださった。
実にぜいたくなセミナーだった。

輪読会は17回、中断しながら1年続いた。

4月末の薬理の学生実習のあと、オブザーバーとして輪読会に参加した学部学生の上田(長瀬)美樹さんは、Hodgkinらが微分方程式を手回し計算機で近似的に(オイラー法)解いて再現した活動電位を、実験室のPC98で再現した。これは後述する野間先生がバーチャル細胞(京都モデル)で心筋膜電位を再現する15年ほど前である。
(彼女は北天佑が好きで、ある日、スポーツ新聞を持ってこられ、見ると第一面の大関のうしろに彼女が写りこんでいた。)

このような数学モデルから膜電位を理解していく勉強は、薬理学の実験をするにあたって必要ない。もっといえば、じつは電気生理学の実験をするにあたってさえも必要ない。
難しいとされるパッチクランプも練習すれば誰でもできる。電気生理の理論を知らなくても、パッチクランプさえできれば、薬物のイオンチャネルに対する作用などは薬物添加前後の電流値を比較するだけでよい。もちろん測定機器は(自らハンダごてを持たなくても)市販されているし、防震台、顕微鏡を含めた電流測定系も(金さえ出せば)業者がセットアップしてくれる。

ほとんどの研究室では学会発表に備えて、新人と言えど、一日でも早く実験してデータをとることが優先される。当然勉強することも研究室、本人のテーマに関連したことが中心となる。

しかし遠藤研では目先のテーマと関係ない教育がなされた。
そして私にとってこの輪読会は大きな財産となった。
以後30年近く細胞生理学と付き合うことになるが、徹底的に勉強したことは自信となった。昔の生理学研究者はみな通った道だろうが、1980年代以降は理論の勉強よりも早く電流をとること、考えることより早くデータを出すことが大事となり、Hodgkin-Huxleyをあれほど読み込んだのは我々が最後だったのではなかろうか。

もちろん、オリジナルの難解な文献を読み込む目的は自信をつけるためではない。
細胞がどのような機構で動いているのか? それらに初めて切り込んだ人々はどのような装置を作り、どのような実験をしたのか? どういう考え方でモデルの数式が作られ、実測値とどのくらい合致したのか? 教科書、総説に書いてあることを鵜呑みにするのでなく、一流の研究をきちんと辿ることが目的だった。
遠藤先生も飯野先生も、独創的研究を大切にしていらした。具体的には、例えば、今まで見えなかった現象を観測することに一番の価値を置いていらしたようだ。そして新しい現象を観測するには新しい装置を自作せねばならない。

当時飯野先生は骨格筋の収縮に伴うCa動態を研究されていた。溶液交換、筋肉の電気刺激、張力測定、fura-2測光のためのシャッター開閉、信号の記録は秒、ミリ秒の正確さを要した。それらを手作業で行うことは不可能であり、先生はコンピュータで制御するシステムを作られた。

今では当たり前のことだが、当時は極めて珍しかった。
すなわち世間ではNECのPC98が多くの研究室に導入されつつあったが、まだ共同のコンピュータ室に置かれ、タイプライターでなく「一太郎」で論文を書けることになって喜んでいた。まだウィンドウズもマックも、ワードもエクセルもない時代である。
飯野先生はA-D、D-A変換のボードを後ろに差し込み、各機器とつなげ、キーボードで操作し、一方で機器から得られた電圧信号をパソコンに取り込み、自由に加工できるよう、n88basicでプログラムを書かれた。

我々に対してもプログラミングを推奨され、演習問題を作ってくださった。
最初はグラフィックに慣れるため、
  y=1/n*sin(nx) 
などでnを自由に変えられるプログラムコードを書かせ、次にそれらを級数として加算した
  Y=Σ[k=1,n]1/k*sinkx (-4Π<x<4Π)
  Y= Σ[k=1,n]1/(2k-1)*sin(2k-1)x 
のコードを書くように指示された。
出来上がると「nに100を入れてください」と言われる。
やってみると正弦波でなくのこぎり波、パルス波が突然画面に現れた。
驚くと、先生は「フーリエ変換の逆です」と、にこりとされた。
その時の経験をもとに、会社に戻ってから配属新人のために私が出題した演習。
しかしYさんもOさんも手を付けず質問すらしてこなかった。

遠藤先生は1994年に定年退官後、埼玉医大にうつられ、飯野先生が翌年教授となられた。
飯野研はその後、新しい実験手法を導入して大発展していくが、集まる学生は優秀な者ばかりで、我々が一から教えてもらったことは、たぶん各自が自習するべきことであり、あのような丁寧な指導はなされなかったであろう。
つまり、あれは薬理学教室の教育ではなく、たまたま我々がお二人から受けた、1987年一回かぎりの教育であった。

(続く)

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2022年8月25日木曜日

京都22 本願寺の歴史を整理する

3月19日、定年退職を前に家族で京都を旅行した。

2泊3日の最終日は、昼食後家族と別れ、ひとりで丹波口の京都リサーチパークにきた。ここは2003年から2005年にかけて50回ほど通って懐かしい場所である。

外からKRP4号館ビルを見ただけで、近くの京都中央卸売市場、島原花街跡を久しぶりに通り過ぎながら、家族との待ち合わせ場所の東本願寺に急いだ。

14:46に島原大門を出て、家族にラインしたら東本願寺境内にまだいるとのこと。

まっすぐ花屋町通りを東に歩くと大宮通りで西本願寺の北西角にぶつかった。

2022‐03‐21 14:54
塀に沿って大宮通りを南下

延々続くのは蔵だろうか。
浄土真宗の大本山として相当な財力、影響力をもつ。江戸時代以来の宝物、仏具やら仏典、書類が大量にしまわれているのだろう。戦前の大谷探検隊が持ち帰った西域仏教の資料もあるのかな?

14:58
ようやく塀が切れ、東に行く道があった。
左右とも龍谷大学。

ちなみに(西)本願寺の山号は龍谷山である。
龍谷大学図書館
この大学は、寛永16年(1639年)、西本願寺13代宗主良如が、本願寺阿弥陀堂の北に僧侶の教育機関として設立した学寮を起源とする。
1922年、大学令により(旧制)大学となったから、日本の正式大学としては古いほうだ。
いまは文系各学部のほかに滋賀県には理工学部、農学部もある総合大学となっている。単なる宗教大学ではない。

ちなみに甲子園最多出場を誇る平安高校も、2008年から竜谷大付属平安となったように、本願寺系の学校である。(大宮通りの西にある)
14:59 龍谷大学北黌
明治12年建築の重文

15:00
本願寺の台所門
本願寺中央幼稚園の表札がかかっている。

ちなみに東本願寺と西本願寺は通称で、正式にはそれぞれ真宗本廟(山号、寺号なし、真宗大谷派)と龍谷山本願寺(浄土真宗本願寺派)である。

大玄関門
24年前の1998年3月25日、薬理学会の合間に東本願寺と西本願寺を見物した。
東の堀川通りの門から西本願寺に入ると、駅に近くて観光客もいる東本願寺とは違って人はほとんどいなかった。国宝飛雲閣は見られなかったが、夕日の中、境内をゆっくり歩いてこの大玄関か台所門からでて龍谷大学を見つけた。それまでこの大学が本願寺付属とは知らなかった。

15:01 唐門
国宝なのに、人通りもなく誰も見ている人はいない。
本願寺の私道と思われる道は、北小路通りというらしい。何が北なのか分からないが。

本願寺は浄土真宗の寺。
1262年に親鸞が89歳でなくなった後、弟子たちが親鸞の師匠、法然が起こした浄土宗から別れ、新たな宗派を発展させた。だから親鸞は創立者ではないが、教団からは教祖とされる。

親鸞は鳥部野北辺の「大谷」に葬られ、大谷廟堂が教団のよりどころとなる。親鸞のひ孫にあたる第三世宗主、覚如が1321年、廟堂を寺格化し、本願寺と号する。

その後、本願寺は延暦寺など既存宗派から迫害を受け各地を転々としたが、徐々に教勢を拡大し、戦国時代には各地で一向一揆をおこし大名と戦うほどだった。1533年以降、教団本山となっていた大阪、石山本願寺は信長と11年間戦った。最後は11世顕如が和議に応じ紀伊に去ったが、このとき長男の教如は徹底抗戦を主張した。
ちなみに、のちに大阪城が築かれる石山は中興の祖8世蓮如の隠居所として作られたもの。

本願寺教団は1591年、秀吉から現在の堀川七条の地を与えられた。
しかし顕如の跡を継いだ長男の教如は、石山合戦のときの強硬派ばかりを側近として重用したため、教団が分裂していく。石山合戦のときの穏健派は三男の准如をたてた。12世となるはずの教如は秀吉の怒りを買い、准如が本願寺12世となる。
いっぽう教如は本願寺の一角に御影堂を建てた隠居所に暮らすことになった。

秀吉没後、長男教如は家康に近づき、本願寺のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領を寄進され、御影堂などをうつした。そして教如の三男、宣如の時代になって、正式に一派を成し、教如を12世、本人を13世とする真宗大谷派(東本願寺)が成立した。

・・・・
唐門の前を通って東の堀川通りに出るには北小路門をくぐる。
15:04 本願寺北小路門
西本願寺の東南の隅にあたる

本願寺は北小路の北にあるが、堀川通りで南を見ると本願寺並みの立派な門がある。

15:04
見れば本願寺でなく興正寺とある。
興正寺とは何だろう?
本願寺の前にちょっと覗いてみよう。
15:05 興正寺三門

興正寺は真宗興正派の本山。
本願寺同様、親鸞を開祖とし、阿弥陀如来を本尊とする。
山科で建立され、南北朝時代に仏光寺と寺号を改めた。室町時代に14世蓮教は本願寺8世蓮如に帰依して、仏光寺を弟に譲り、再び山科本願寺の隣に興正寺を創建、以後、ずっと本願寺と歩みをともにした。すなわち石山本願寺からここ京都堀川まで一緒だった。しかし明治になって独立、真宗興正派となった。
15:06 興正寺御影堂

現在では、親鸞を宗祖と仰ぐ昔からの一向宗教団は10派存在する。
 浄土真宗本願寺派(本願寺) 所属寺院 約 10,500
 真宗大谷派(真宗本廟、東本願寺) 所属寺院 約 8,900
 真宗高田派(専修寺) 所属寺院 約 640
 真宗興正派(興正寺) 所属寺院 約 500
 真宗佛光寺派(佛光寺)
 真宗木辺派(錦織寺)
 真宗出雲路派(毫摂寺)
 真宗誠照寺派(誠照寺)
 真宗三門徒派(専照寺)
 真宗山元派(證誠寺)
つまり、浄土真宗を名乗っているのは、西本願寺だけである。

ところで一向宗、浄土真宗、真宗の違いは何か?

一向宗は鎌倉時代、浄土宗の一向俊聖が始めたものだが、同じ踊り念仏をする浄土真宗と混じるようになり、戦国時代には一向一揆で見られるように本願寺門徒が一向衆(一向宗ではない)と呼ばれた。

戦国時代までは一向宗とよばれたが(教団は自称していない)、幕府により時宗と一緒にされいったん時宗一向宗と改称、のちに一向宗が公式名称とされた。

しかし江戸時代、東西本願寺が一向宗という幕府公称を浄土真宗に変更するよう請願した。ところが浄土宗の大寺、将軍家の菩提寺・増上寺が「浄土」を使うと混同を招くと反対。
ようやく明治になって政府が浄土の語をはずした「真宗」ならよいとし、一向宗から真宗と変わり、1世紀かかって決着した。
すべては真宗となったわけだが、国家による宗教統制が解かれた第二次世界大戦後、西本願寺だけは浄土真宗本願寺派と正式に名乗るようになった。

15:06 興正寺阿弥陀堂
明治35年の本堂消失の後、再建。

再び堀川通りに出て急いで隣の本願寺にいく。
15:09 本願寺御影堂門
東西本願寺では、みえいどうではなくごえいどうという。

15:10 
目隠し塀(重文)の後ろに本願寺御影堂

15:11 逆さ銀杏
枝が根のように広がっているから。
樹齢400年、京都市天然記念物。

忙しいので御影堂(国宝)、阿弥陀堂(国宝)、飛雲閣(国宝、非公開)、書院(国宝)など、じっくり見る暇もなく、すぐ退出し、家族と合流せねばならない。

東本願寺にいるはずの家族にラインしたら、これから京都駅あたりでお茶するという。
京都駅観光案内所で16時半待ち合わせに変更した。
少し余裕ができたが、時間がないことに変わりはない。

御影堂門から東を見ると、堀川通りの向こうに門がある。
西本願寺の総門である。

15:20
御影堂門からまっすぐ、本願寺総門をくぐる通りは正面通りという。
この普通名詞のような通り名は、京都における本願寺の大きさを表している。
両側は仏具店などが並ぶ。

写真右は西本願寺伝道院。生命保険会社の社屋として明治45年(1912)に建てられ、銀行や診療所などを経て、いまは僧侶の教育施設として使われている。設計は築地本願寺(西本願寺系)を設計した東京帝大教授・伊東忠太。

1998年とは逆の順番で、西から東に向かう。
正面通りは新町通りで行き止まりなので、北に曲がった。
東本願寺も西本願寺と同じように、西辺に門はない。

15:26
新町通りをいくと、たまにある隙間から、東本願寺の城壁のような石垣が見えた。
普通の寺なら四方に入口があるものだが、東本願寺は東の烏丸通りにしかないようだ。
15:29
東本願寺北辺の花屋町通りを急ぐ。
先に訪ねた島原大門から続く通りである。

ようやく烏丸通に出て南下。
東本願寺の正面に出る。
15:34 烏丸通りと京都タワー

15:35
寺号が書かれる扁額には、なるほど「真宗本廟」と書いてある。

15:36
御影堂、左が阿弥陀堂
もう家族はお茶に行ったので、合流する必要もなく、じっくりみていく。
1998年と同じように御影堂に上がってみる。
15:38
東西本願寺の良いところは、京都駅近くの広大な境内に豪壮な建物が並ぶにもかかわらず、入場無料なこと。全国一万寺を誇る大寺の財力によるものか、あるいは敬虔な参拝信者と観光客と区別できないからか。

御影堂は親鸞聖人の御真影を安置する。
蛤御門の変による焼失の後、 1895(明治28)年に再建されたもの。
よって西本願寺と違い国宝はない。ほとんどが重文。

高廊下を渡ってギャラリーにいく。
15:41


ギャラリーでは親鸞聖人の生涯についてビデオを流していた。
閉館の16時近かったこともあり、客は誰もいなかった。
高廊下をゆくと参拝接待所があり、自由に入って休めるようだった。
広い畳の大広間に、信者だろうか、数人座っていらした。

東本願寺を出て京都駅に向かう。
16:08
ちなみに、今CMでよく出る「浅草浄苑」を売り出している浅草の「東本願寺」は、ここから分かれた。
1969年に真宗大谷派の内紛(お東騒動)の余波で1981年東京別院東京本願寺住職であった大谷光紹(第24世 闡如(大谷光暢)の長男)が京都の真宗大谷派から独立、1988年、賛同する寺と一緒に浄土真宗東本願寺派を結成した。
宗派名は本家のここよりずっと「東本願寺」を思わせるから紛らわしい。
本家の正式名が東本願寺でないことから、名乗ることができた。

16:11
京都駅に向かう途中、半地下のフロアにカフェなどが並ぶ。
ヨドバシカメラ、ユニクロも入り、古都に現代が混じる。

16:13
駅についてふと見るとメルパルク京都があった。
メルパルクは日本郵政が土地を保有、全国でホテル、会議室などを運営している。
2004年、丹波口KRPの野間プロジェクトに出張していたころ、嵯峨野公民館、江坂などのダンスパーティに行き、7月にはここメルパルク(ぱるるプラザ)のパーティにも来た。

2017年5月、全国の薬学部の薬理担当教員が集まった、薬剤師国家試験問題検討会も、ここのメルパルクで開かれたことを思い出す。
16:18 京都駅
家族と合流、新幹線で東京に戻った。

二泊三日だったが単独行動もしたおかげで密度濃い旅行だった。
いろんな記憶がよみがえり、ブログも17本にわたる。
しかし、かつて訪ねた哲学の道から銀閣、金閣、嵯峨野、桂、宇治、大津、宝ヶ池などは行けなかった。退職老人として千駄木に引きこもったから、もう京都に行くことはないと思う。

(京都シリーズ終わり)